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六章 六月三週目の月曜日
思考停止することが本当にあるのだと、譲はそのとき初めて実感した。
昼休み。譲がすっかり仲良くなった元上司の笠松と昼食を摂っていると、金曜の夜、と笠松に切り出された。
「実はさ、譲が草野と手繋いでホテルまで歩いてるの見たんだよね」
「え」
極めつけは、この一言だった。
「譲は、草野と付き合ってるの?」
「……えっと」
せっかく諒の作った美味しい弁当のはずなのに、味が一気にしなくなる。譲は言い訳を考えた。
言い訳その一。人違い。譲だけだったら、付き合いが浅いことからそれは使えるが、笠松と諒は五年の付き合いがあるから難しい。
言い訳その二。たまたま。しかし、たまたま成人男性同士が手を繋ぐというのはどういう状況なのだろうか。それに、ホテルまで歩いているところを見られたのだ。たまたまとは言いにくい。
それならば、笠松に言ってしまおうと譲は思った。付き合いがまだ浅いとはいえ、笠松が信頼できる人間なのは譲も知っている。しかし。
諒は譲と付き合っていることを周囲に明かしたがらない。
昔のように、世間の多くが同性愛に否定的というわけではないが、それでも受け入れてもらえるかは人による。諒は受け入れてもらえないかもしれないことに恐怖感があり、カミングアウトをしたがらない。対照的に、譲は面倒くさくてしないだけなので、笠松に言いたくないわけではない。ただ、諒の了承を得ずに付き合っていることを告げるのは、アウティングになりやしないか。そう思うと、どう笠松に真実を告げるべきか、結論は出なかった。
「……あ、別に、譲が草野と付き合おうと何だろうと、俺は接し方を変えるとかしないよ? ただ、俺はいつも譲に彼女がいるていで話しかけてたから、それを謝りたいなって」
笠松は静かに言った。譲が顔を上げると笠松と目が合う。笠松は穏やかな目をしていた。やっぱりこいつは信用できる。譲は改めてそう思った。
「……うん。俺、諒と付き合ってる」
「そっか」
譲が静かに言うと、笠松は優しく相槌を打った。
「……でも、諒は、俺と付き合ってることを話したがらないから、秘密にしておいてほしい」
「分かった」
そこでやっと、譲は弁当の味がするようになった。受け入れられるかどうかが怖いという諒の気持ちが、分かるような気がした。
「ってか、譲は諒って呼んでるんだな」
カップラーメンをすすりながら、笠松がにやりと笑う。
「べ、別にいいだろ!」
「仲良さそうで何よりだよ」
笠松が譲の肩を叩く。食べ終わったようだ。
「総務に呼ばれてるから、じゃあな。お幸せに」
譲はうるせーと毒づいたが、笠松には効いてないようだった。
昼休みが終わって譲が自分のデスクに着くと、私用のスマートフォンに諒から連絡が来ていた。
『今日は仕事が少しだけ長引きそう。夕飯買っておいてもらえると助かる』
諒からのメッセージを見ると、先ほどまでの安堵していた気分は少しだけ下がる。勝手に交際していることを明かしてしまったのだ、諒には謝らなくてはならない。
『分かった。それと諒、マツに付き合ってること言っちゃった』
真面目な諒のことだから仕事に夢中で気づいてないかと思いきや、既読はすぐについた。
『なんで』
『俺の誕生日にホテル行ってたの、見られてたっぽい』
既読はすぐについたが、文面は送られてこない。見られていたという事実に、諒が言葉を失っていることが譲には分かったので、すぐに詳細を送る。
『でも、俺たちが付き合ってるのは他に言うなって言ったし、そもそも気味悪がることもなかったよ』
『ありがとう。俺は周りに言いたくないから、そう言っておいてもらえて助かった』
これで諒は安心して仕事に戻れると譲は思ったが、さらに諒からメッセージが来ていた。
『今日はどこかで飲まない? マツも誘ってさ』
諒も自分の言葉で伝えたいのだろう。信頼している友人にはなおさらである。
『譲、マツを誘っといてくれる?』
『分かった』
笠松を誘うのは上手くいき、今は会社の近くの居酒屋で譲と笠松とで飲んでいる。最初は仕事の話をしていたが、話題は今いない諒に移った。
「――入社したての諒ってどんな感じだった? 入社後の研修から一緒なのは前に聞いたけどさ」
ジョッキをごとりと置いて、譲は笠松に尋ねる。
「なんか、入社式のときから目立ってたよ。イケメンがいるって。俺もイケメンなのにさ!」
「そうだな」
あっ、今の棒読みだったろ、と突っかかってくる笠松を無視して、譲は話を続けるように促した。
「草野は話せないけど、でもそれで陰口言われることはなかったかな。もうみんな大人なわけだし」
「良かった……」
譲は深く息を吐き出した。いくらホワイト企業とはいえ、全員が優しいとは限らないし、諒に何かあっては譲だって悔しくなる。
「あと……。あ、めちゃくちゃ仕事できてた。研修で同じグループになったみんなに役割振るの上手かったもんな」
「だろうな」
まるで譲自身が褒められたかのように、譲の口角が上がる。
「諒は昔から要領が良いんだ。塾行かないで大学受かってるし」
「それはやばい」
そのあとも諒の話を続けていると、その張本人がやってきた。譲が手を上げると、諒も挨拶代わりに手を上げた。無意識に、諒は譲の隣に座った。
『遅れてごめん』
「いーよ、大丈夫。新卒採用で忙しいんだろ? 人事部総出でやってるもんな」
笠松が諒に尋ねる。諒は頷いた。そのままスマートフォンに目線を移し、入力している。入力が終わると、自分の向かいに座る笠松にスマートフォンを見せた。
『マツ、今まで黙っててごめん。譲から聞いたと思うけど、俺は譲と付き合っているんだ』
「いや、謝ることじゃないっしょ。もちろんびっくりしたけど、幸せそうだし、良かったよ」
笠松が微笑んだ。その爽やかな笑顔を見て、諒はようやく肩の力が抜けた。
『ありがとう。……俺、誰かに自分がゲイだって言うのが怖くて』
譲は自身の性的嗜好をバイセクシャルだと思っているが、諒はゲイである。以前ふたりの間でそういう話になったとき、諒はひっそりと譲に打ち明けてくれた。
「あー、確かに言うの怖いよな。俺は女の子が好きだから気にしたことないけど、怖いって聞く。てかさ、俺、聞きたいことあったんだけど」
聞きたいことってなんだ。思わず譲も諒も身構える。
「付き合い始めたのっていつ?」
思わずふたりして、がっくしと肩を落としてしまった。
「え、そんなにおかしい質問した? 俺地味に気になってるんだけど。だって幼馴染だったのが恋人になるんだからさ」
「いや、俺も諒も、下ネタ系がくるのかと」
「そんな下世話なこと聞かねぇよ!」
ははは!と笠松が笑う。諒は『ごめんね、ありがとう』と打った。身構えていたのが馬鹿らしくなって、ふたりも笑った。
「それで、いつから?」
「高校卒業するタイミングだよ」
『俺が告白したんだ』
「へぇー! じゃあ来年で十周年じゃん」
人の恋愛話は酒が進む。笠松の飲むスピードはいつもより早かった。
「今一緒に住んでんの?」
「住んでる」
「それもいつから?」
「社会人になるタイミングだな。それからずっと今のマンションに住んでる」
『俺は三年の頃から一人暮らししてたけど、そこに譲が入り浸ってたから、実質七年とか』
「半同棲からの同棲って、え、今結婚してるみたいじゃん」
結婚という言葉に、スマホを動かす諒の手が止まる。少しの変化を、譲は見逃さなかった。
「同性婚できるようになったら良いんだけどな」
「そうだな」
笠松がそう言って酒を呷った。
「そうだ、今もおアツそうなふたりにこれやるよ」
笠松が差し出してきたのは、水族館のペアチケットだった。
「俺、大学の後輩とルームシェアしてるって言っただろ? そいつが抽選で当てて彼女と行こうとしてたんだけど、最近別れたって言うからさ、譲に渡そうと思ってたんだよね」
諒がチケットを受け取った。諒は楽しそうにそれを見ている。
「それで、俺が諒と付き合っていることが分かったから、今渡してくれたのか」
「そういうこと。楽しんできてな!」
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