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売れない小説家の男は、カーテンを閉め切ったアパートの部屋で小説を書いていた。玄関のチャイムが鳴った。男がドアを開くと浴衣を着た見知らぬ少女が立っている。
「金魚を買ってくれませんか」
ガラスの金魚鉢を持った少女が、そう言った。
「金魚?」
鉢の中で色とりどりの金魚が泳いでいる。
「あなたの希望を叶えてくれるわ」
「この金魚が?」男は笑った。
浴衣の胸元から覗く少女の白い肌に、鮮やかな紫色の金魚の刺青が見えた。
「じゃあ、その紫色の金魚がいいな」
男は冗談のつもりだったが、その言葉を待っていたかのように少女は悪戯な目で微笑んだ。
薄暗い部屋の万年床で、男は少女を抱いた。少女の身体は冷たく湿っていた。唇を重ね、首筋に舌を這わせ、胸の紫金魚を吸おうとしたとき、すっと金魚が逃げた。驚いて顔を上げると、紫金魚は少女のつま先から額の天辺まで、肌の中を泳ぎ回っている。
「な、何だ?」
そのとき男の背中に、ぬるりとしたものが触れた。振り向くと、男の何倍もある巨大な赤い金魚が浮かんでいる。ひっ、逃げようとする男の前を、同じくらい大きな黒い金魚が零れ落ちそうな目で睨みつけながら通り過ぎる。叫び声を上げようと息を吸った男の口に入ってきたのは、空気ではなく水だった。男は水中に浮かんでいて、その周りを何匹もの巨大な金魚が泳いでいる。水をかいてその場から逃れようとした男は、透明の壁に阻まれた。ガラスの壁だ。
少女の声が聞こえた。
あなたの希望は何、あなたのきぼうは、アナタノキボウハ……
薄れゆく意識の中で男は願った。
「俺は深海魚みたいな生活から抜け出して、日の当たる場所で生きたいんだ」
二日後、男と連絡が取れないためアパートを訪れた編集者が男の死体を発見した。死因は溺死だった。窓際に置かれた金魚鉢の中で、一匹の金魚が太陽の光を浴びて気持ちよさそうに泳いでいた。
男の書いた小説が文学賞に選ばれたことを、編集者が伝えに来たことも知らずに。
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