赤いドアノブ

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 リュックを背負ったまま、1人の男が座るベンチに、間を空けてそっと腰を下ろす。  授業が終わる20分も前だからだろう、通りにはぽつぽつとしか人が歩いていない。  ミサキは、左側の耳に髪をかけながら「お兄さん、かっこいいですね」と隣の男に声をかけた。  突然の出来事に、男は声も出さず咄嗟にスマホから視線を右に向けた。その先には、ベージュのロングコートを羽織り、首元には白いマフラーを巻いてた女性が目に入る。 「お待たせ」 「なんだ、ミサキかよ!」  緊張がほぐれたのか、男は勢いよく体と首を左に回した。 「なーにー。他の女の子が良かった?」  ミサキは顔をクシャませながら、空けていた間を詰めるように座り直した。 「違うよ、そうじゃなくて!いつもより早いからびっくりしただけ」 「ふーん」 「本当だよ!」  男は手に持っていたスマホをズボンのポケットにしまった。 「で、どうしてこんな早いの?」 「今日は授業が早く終わったの。和也こそ早いね」 「まあね」 「また抜け出してきたの?」 「うん」 「うん、じゃないの!もう!ちゃんと授業受けてって言ってるでしょ!」 「だって受ける意味ないじゃん!」  ミサキは、和也のごねた言い訳を「だってじゃない!」と一括した。楽しそうに言い合う2人の息は、薄い白色をしていた。  新しくできた棟から大学の正門までのこの通りは、一定の間隔でベンチが置かれ、学生たちの待ち合わせ場所となっている。ベンチの後ろとその向かいには、葉の散った大きな木々が連なり、その下には枯れ葉がバラバラと落ちている。そんな地面に落ちた枯れ葉たちを踊らせるように冷たい風が吹きつけた。 「うわ、さっむ」と和也はとっさに腕を組み、脚を閉じた。 「そんな薄着で来るからでしょ」 「だって、天気良かったから!コートとかはいらないかなって」和也は左手で頭の後ろをポリポリとかいた。ミサキは、はあと息を吐き出し、右手で身に付けていたマフラーをほどいた。マフラーに乗っていた髪先が、肩の上で揺れる。 「もう。はい、こっち向いて」  ん?と何気なく振り向いた和也の首に、ミサキはマフラーを優しく巻きつけた。 「あったけー!」 「次からは上着を持ってくるなり、ちゃんとしてよね」  和也はマフラーを両手で優しく触りながら、「ありがとう」と笑顔を見せた。  空には、点々と小さな雲が浮かび、乾いた日差しが照りつける。  ミサキが今日の授業であったことを話していると、3限目の終わりを告げるチャイムがなり、新しい棟から一斉に人が出てきた。 「なんかミサキ最近少し雰囲気変わったよね」 「なに?太ったって言いたいの?」  ミサキは、顔をむっと膨らませて、和也を見つめた。 「いや!そうじゃない!なんか雰囲気が少しだけ」  言い切った後の微笑みからして、悪い意味の変わったではなさそうだ。 「何かあったの?」 「んー、あったよ。悪いことがね」  ミサキは、薄黒く汚れた靴のつま先に目を落とす。そのつま先で、とんとんとんと地面に一定のリズムを刻んだ。  和也は眉毛を上げ、少し口を開けたまま「悪いこと?なになに」と嬉しそうにミサキに顔を向けた。 「ナオが最近帰ってこないの」 「妹ちゃんだっけ?」 「うん」 「また家出かー?いつ出てったの?」 「一昨日喧嘩して。そのまま」 「この前の家出のときは、3日したら帰ってきたんだろ?」 「うん」 「だったら大丈夫だよ!気が済んだらすぐ帰ってくるって」  和也の瞳に心配の色は全くない。高校から大学まで全部スポーツ推薦で入ってきた、生粋の野球少年。きっと、ここまでとんとん拍子で来たのだろう。人生に不安という2文字がない。 「でも私にとっては残された唯一の家族だから。心配なの」 「心配性だなあ、ミサキは。妹ちゃんにとってもさ、ミサキが唯一の家族なんだし。年頃とかもあるんじゃない?落ち着いたら戻ってくるよ」 「うーん」  ミサキと和也の前を通るように、もう1度冷たい風が吹きつけた。  去年の夏、母が病気で亡くなって以来、ミサキは小さなアパートで妹と2人暮らしをしている。父親とは会った覚えはないが、母が亡くなったことに同情したのか、今は月に数万円仕送りが送られてくる。 「今日この後バイトは?」和也は伸ばした脚を組んだ。 「今日はなしー」 「じゃあ、しよ」 「え?」 「良いじゃん!しようよ」 「今はそういう気分じゃないというか」 「こういう時こそ、だよ。1回全部スッキリさせてさ。俺も部活が忙しくてそんなに会えないじゃん?」  和也は立ち上がり伸びをした。伸ばした手を下ろすと、開いた左足を動かし反転して、座っているミサキと向き合った。大きな体を折り曲げ片手を膝につき、「ほら、行こ」と手を差し出した。  その手の先にあらわれた甘い笑顔は、私の曇った心を照らす太陽だった。  ミサキは乾いた息を静かに吐き出すと「しょうがないな」と微笑みながら手を取った。  薄暗いホテルの入り口から2人が出てきた。辺りはすっかり暗くなり、電柱に設置された蛍光灯が地面を照らしている。 「夜は本当に寒いなあ」と和也は腕を組みながら、体を震わせている。 「風邪ひかないでよ」 「うん、ミサキを送ったら、駅まで全力で走る」 「送らなくていいよ!そんな遠くないし、ここら辺人通り多いし。なんと言っても風邪ひかれたくないし」 「でも」 「本当に大丈夫!」ミサキは遮るように、素早く答えた。 「分かったよ。じゃあまた明日!」 「うん!バイバイ!」  和也は、軽く跳ねるように走っていった。ミサキは和也の後ろ姿が見えなくなるまで手を振った後、駅とは逆の方向へ歩き出した。  凍えるような風が吹きつける。ミサキは歩きながら、コートのボタンを上まで留めた。15分ほどすると、2階建ての茶色い小さなアパートが見えた。階段を登った先、1番手前の201号室が、ミサキたちが暮らしている部屋だ。  ミサキは階段を登り、201号室の札の前に立った。鍵を回してドアを開けると、そのまま流れるように靴を脱ぎ、明かりをつけた。  照らされたワンルームの部屋は、まるで誰かに荒らされたかのように、化粧品や服がそこら中に散らばり、割れたコップの破片まで床に広がっている。左手のタンスの前には、口にガムテープを貼られた女が、縮こまるように座っていた。手首と足首には、ぐるぐると何重もガムテープが巻かれ、立つことすらできない。その女は、涙目で必死に何かを訴えていた。何と言っているかは分からないが、置かれている状況に怯えていることは見てとれる。  ミサキは、部屋の状態に何の驚きも見せず、着ていたコートを脱いだ。そのコートをタンスの横のハンガーにかけると、そのまま女にゆっくり顔を近づけて「ただいま、お姉ちゃん」と口に貼られたガムテープをゆっくりと剥がした。その女の顔は、ミサキと見分けがつけられないほどに似ている。 「奈央、こんなバカな真似はやめて」と女は諭すように声を震わせた。 「バカ?お姉ちゃんにバカとは言われたくなーい!自分の置かれてる状況を考えな!みっともないよ」 「お願い!こんなことはやめて!」今度は、動揺しながら叫ぶように言った。 「ていうか、バカといえばあの男こそ正真正銘のバカだよね!自分の彼女とその妹の見分けすらつかないで。挙げ句の果てには、妹にあんな一生懸命腰振っちゃってさ!いくら一卵性の双子で顔が似てるからって、本当にあんたのことが好きならさすがに気付くでしょ?」  先ほどまでミサキとして和也と会っていた女性は、双子の妹の奈央だったのだ。  黙りこんだ美咲を背に、奈央は、落ちている白いシャツの上を歩き、中型の冷蔵庫を開けた。水の入った2ℓのペットボトルを取り出し、右手のミニキッチンに置かれたコップへ水を注いだ。その水を半分ほど飲み、コップを持って再び美咲へ近づいた。 「ごめんね!私が悪かったから!すぐに和也とは別れるから!」  美咲は顔をあげて立っている奈央を見上げた。はあ、はあ、と息が荒くなり、その目には涙が溢れていた。 「被害者ずらすんなよ!」と奈央は声を荒げ、手に持ったコップを美咲の顔に振り付けた。コップの水が美咲の顔で強く弾ける。顔からポタポタと落ちる水は、少しずつ美咲のスウェットの色を濃くしていった。 「いっつもそう。美咲は私が欲しいものを全部手に入れる」 「ねえ!こんなことしたらお母さんが悲しむよ」 「もう、お母さんはいないんだよ!」  奈央は、持っていたコップを床へ叩きつけた。バリンとコップの割れる音が部屋に響く。 「昔は誰よりも仲良かったじゃない。なんで。なんで」  美咲は、床に声をこぼすように顔を下に向けた。 「約束破ったのはそっちでしょ。」奈央は、ありったけの怒りを練り込んだ声でそう吐き捨てると、先の尖った破片を1つ拾い上げ、両手で強く握りしめながら美咲に近づいた。 「あんたなんか生まれてこなきゃ良かったんだ」  美咲の首に破片の先が向けられた。 「美咲、死んで」 「やめて!奈央!」  美咲が声を絞り出すと同時に、一台のスマホの着信音が鳴った。奈央は、動きを止めてスマホの方に視線を向ける。遠目で発信者を確認すると、横に落ちていたガムテープを拾い、適当な長さで雑に美咲の口へ貼り付けた。 「愛されてんだね」奈央は立ち上がり、殺意に満ちた真っ黒な目で美咲を見下ろした。  奈央は先ほどハンガーにかけたコートをもう一度羽織ると、持っていた破片をコートのポケットにしまった。美咲が何か言おうとしているのを聞こうともせず、さっそうと靴を履きドアを開けた。  勢いよく閉められたドアのドアノブには、赤い血がべったりと付いていた。      
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