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午後7時。舞花はトランポリンをじっと見つめていた。もう練習をしている選手はいない。片付けを終えて各々帰っていく選手の中、一ノ瀬舞花だけ時間が止まっていた。
「邪魔なんだけど。」
後ろで声がした。舞花は現実にもどる。振り向かなくてもわかる。この平手体操クラブのエースで、舞花にとっていろいろな意味での兄貴分、棚橋雫だ。
「突っ立ってないで、片付けるか帰るかどっちかにしてくれる?」
雫の不愛想はいつものこと。舞花は一切気にしない。
「イメージしてたの。」
「イメージ?」
「もっと高く飛びたい。もっともっと回転して、もっとひねりたい。」
舞花の視線はトランポリンのまま。この言葉の奥にあるイメージを具現化できたらいいのに。
「また新しい技挑戦したいの?」
舞花はこくりとうなずいた。やってみたい。とんでみたい。理由なんてない。心の底から枯れることなく湧き出てくる想い。雫には伝わるだろうか。
「ケガするよ。まず今の技の出来栄えをあげれば。」
予想通りの答え。ただ、舞花は落胆していない。雫という人物をよく知っているから。挑戦したいという身体から湧き上がってくる思いが分からないはずがない。体操選手としての本能。
ただ、良くも悪くも雫はいろんな意味での兄貴分なのだ。
雫と舞花は同じ施設で育った。施設育ちの自分たちが体操クラブに通えているのは、雫と舞花の姉、咲花のおかげだ。二人がずば抜けて優秀だったから。地元のテレビ局が取材にくるほど。
雫と咲花のおかげで施設の後輩たちは特別価格で体操教室に通えることとなり、体操教室もまた有名となった。小さな町の体操教室から、車で市外からも通う生徒が続々と増えるほど。雫も咲花も施設の顔、教室の顔として恥ずかしくないよう、模範的で練習熱心で、そして結果も残していた。
でも舞花はなぜか少し反発してしまう。
「それって楽しいの?」
自由にのびのび飛びたいのだ。そして、雫にも飛んでほしい。真面目な殻でおおわれた雫にも殻を脱いでほしい。
昔みたいに笑ってほしい。でもそれは叶わない。少なくとも舞花には。雫が唯一笑うのは咲花だ。
女神のような咲花とエースの雫の仲は、だれが見ても明らかだった。
「それなのに二人とも気づいていないんだから天然は困るのよね。」
「何ぶつぶつ言ってるの?」
心の声がもれていたらしい。
「なんでもないですよ。それに平手コーチにも同じこと言われましたよ。Eスコアをなんとかしなさいって何度もね。雫もコーチもつまんない。」
舞花はぶうぶう言いながら、トランポリンを後にする。片付け掃除は手伝わない。それがせめてもの反抗だった。
体操は大技を決めればいいというものじゃない。いかに難しい技を実施するかのDスコアと出来栄えのEスコア。
難しい技をいくつもしたって出来栄えが悪くては意味がない。そんなことは今年で中三になる舞花だってとうに知っている。
美しさ。開始から終了まで、足先から指先まですべてに美という意識をいきわたらせる。派手な技ばかりに目を奪われるより基礎をしっかり。それはわかっている。
大股でロッカーに来た舞花はすぐ様カバンをとった。ジャージで来てジャージで帰るだけだ。体育館と施設は公園をはさんだだけの距離。着替える必要はおろか、髪をとかす必要も舞花にはなかった。
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