キャンプ場で夏が死んだ

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  蝉の声が父の一声でやんだ。偶然かもしれない。蝉は三十四度を超えると鳴かなくなる。朝食のトーストを咥えて私は目を白黒させるしかなかった。今夜はキャンプの予定だったのに、母がプログラマーの男性と不倫していることが発覚した。  赫怒する父は二度とお前の顔も見たくないと言った。母は至って冷静に化粧を施し、いつも以上に着飾って家を出ていった。    予定を変えることなく、夏休み最後の夜に父とキャンプ場に来た。星がちらつき、月も山の端に昇っている。二人きりで、川のせせらぎや野鳥の侘しい声を聞いたのははじめてだ。父はジーパンとTシャツという軽装で火おこしの際に母の不在を憂いている。  今頃、母は大手企業のプログラマーと大いに戯れているのだろうことは私にも想像がついた。ため息が出る。  明日から、学校。だけど、休むことは前からきまっていた。今夜はこの人気のないキャンプ場で眠ることになる。始業式に校長先生の話を聞くだけなら、登校する意味もないかなとも思う。父も母もそういう考えだった。それに、この最後の日しか両親の休日がかぶらなかった。 「肉は持ってきたが、魚はどうする? 二人で食べきれるか?」 「魚は……」  正直、少食の私には肉と魚を両方食べきることは難しいだろう。  食材は三人分ある。お母さんの分も入れて。それが悲しい。母は今朝不倫がばれたことを開き直って出て行った。夏休みに毎日つけるように言われている日記帳には、「お母さんが出て行った。悲しかった。お父さんのせいかどうかは分からない。だけど、お母さんから見て、お父さんは足りないところがあったみたい。私はどうしたらいいか分からなくて泣いた。だけど、お母さんにはあなたは気にせず毎日学校に行けばいいと言われた。だから、私は大好きなお母さんの言いつけを守って学校に行く」と書いた。それは嘘になる。だって、この寂れたキャンプ場にいるんだから。  父が肉を焼いてくれる。私は無意識に肉を三枚の紙の取り皿に分ける。お母さんの分も勘定している。お父さんは一瞥すると無視してどんどん肉を焼いて行く。カルビ、ハラミ、タン……。  鳥の呼ぶ声を聞いた。親鳥が雛を呼ぶような。食事とは、必要最低限にして行われるものだろうと思う。私とお父さんは、二人で食べきれない量の肉を焼いている。人間は極めて非効率な生き方をする生き物だ。  父が紙皿を二枚手渡してくる。私は義務的に受け取る。隣にいるはずだったお母さんの分まで。  炭の匂いが鼻腔をくすぐると自然と唾液が口内に広がる。私、お腹すいてたんだ。  そういえば、昨日も肉を食べた。二日連続になる。身体に悪そうだけど、今更そのことを父に言う意味がない。  母の手料理はずば抜けて美味かった。母はイタリア料理店に店長補佐としてホール入りしたことがあった。ニ年間イタリアで料理修行をしたこともある。  一昨日のディナーはバルサミコ酢で頂くタリアータ。焼いた牛肉を薄く切って皿に乗せるシンプルなものだが、お母さん厳選のオーガニックのバルサミコ酢をかけることによって、鋭い酸味の中に甘みを醸し出す。ルッコラとクレソンにピーラーで薄い帯状にしたパルメザンチーズも添えられていた。  父は黙々と肉を焼いては裏返していく。私は牛肉を口に運ぶ。硬い。炭の白煙も目に滲みる。母の涙を思い出す。  父は、涙しない。まだ、怒りの炎を焚べている。肉と一緒に焚べているんだ。  私は黙って口に運び、胃を満たすことで父の怒りの生贄になるんだ。父が涙を流せないのなら、私が腹いっぱいに怒りを摂取すればいい。生肉を乗せた皿から網の上、私の取皿へと移動するトングの機械的な動きに、私は機械的に割箸で肉を掴み口に運ぶという動作で応える。  悲しいことに、美味しい。満たされていく。心は満たされていないのに、胃は踊っているようだし、口内はとめどなく唾液が染み出してくる。  母が帰って来る保証はどこにもない。ありふれた破局だったけれど、なにも今日じゃなくても良かった。  バーベキューの炭の爆ぜる音に混じってコオロギの鳴き声がキリキリと聞こえる。肌寒くなってきた。夏の終わりがこんな最後を迎えるなんて。  明日には今年の夏は死んでしまうだろう。父の俯く顔が炎に照らされて毒々しく赤らんでいる。灰が舞って目を細めた父。その目に一筋の涙が流れていた。
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