第1話 自殺を決意~恋人を買う

3/4
前へ
/191ページ
次へ
 ひょんなことからレターケースを倒して中身が床に散らばった。  物が散乱する中でA4サイズの物件チラシが目に留まった。引っ越し前に不動産屋から貰っていた、このアパートの募集広告。  なんてことのない、ありふれたチラシを俺は拾い上げた。そこにはでかでかと賃料が表記されていた。 【家賃6万円!】  …………。  仕送りと合わせて10万円。  1年間で120万円。入学してから190万円。卒業するまでに480万円。学費と合わせると大体900万円。    電卓をたたくように、頭の中で手にしたことのない大金を計算した。  その額は生きることを諦めるのには十分な数字だった。  ずっと気付かないふりをしていた。俺という人間が生きているだけで、これだけの金がドブに流れていること。そして回収する見込みがないこと。  財産であれ、幸せな人生であれ、普通の人生であれ、俺に手に入るものは……きっとこれまで通り何もないということ。  そういった理由で、もう俺は死のうと思った。  だが、 「……ふははっ」  ついつい、俺は笑った。  何を格好つけてるんだ。回収できないなんていかにも“普通の人間”らしい発想だ。この期に及んで俺はまだ自分に嘘をついている。  哀れだ。惨めだ。  実際には人生を諦める理由が欲しかっただけなのに。きっと俺は、潜在的に人生を諦めるキッカケを欲していたんだと思う。理に適ったそれらしい出来事が訪れることを、密かに待っていたんだ。  それがいま、やっと訪れた。それだけのことだ。  俺は、しばらくの間、自分の人生を俯瞰してみた。  その半生を映画にすれば最後まで席を離れないのは俺ひとりだろう。何の起伏もなく、栄光もない人生。ほどほどに苛められて、ほどほどに存在を拒絶されて、ほどほどに期待を裏切って、ほどほどにひとりの時間を過ごしてきた。  自慢できるようなことは何ひとつとして無い。  彼女はおろか友達のひとりも居ない。  これまで幾度となくアルバイトをしてみたが、ことごとくダメ。大体は数か月でクビになるか、自主退職に追い込まれた。 「はは……あはははは」  思考がぷつりと切れた。原因は胸が潰れるような感覚だった。  まったく恥ずかしいことに、今なお俺は、微かに希望を抱いていたらしい。  思考を巡らせるなかで、真っ暗だと分かってるトンネルの中に、僅かでもいいから光を探していたみたいだ。それが最も、自分を傷つける方法だって分かっているはずなのに。  散らかった床を放置して俺はベッドで横になる。いつ、どこで、どのような方法で死んでやるか、真っ白な天井を見つめながらぼんやりと考えることにした。  そして気付けばスマホで動画を漁っていて、数時間経った頃には散歩に出掛けていた。  灰色は淀みなく、とことん灰色らしい。
/191ページ

最初のコメントを投稿しよう!

21人が本棚に入れています
本棚に追加