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半分
おやつの時間になって、裕太はいつもよりこの時間が静かな事に気が付いた。
テーブルの真ん中に置かれたショートケーキはひとつ。取り皿もフォークもひとつ。
蝉がなく夕方の日射しはまだ高く、縁側から照り返した光は室内のLED電灯がまったく必要ないほど明るい。
裕太は真ん中に置かれたショートケーキを手元まで引き寄せて皿ごとぐるぐると回転させ、全方向からケーキを観察した後、またテーブルの真ん中まで戻してじっと見つめた。
いつもならここで妹の真奈が廊下を走ってきて、図々しく「兄ちゃん一口!」と駄々を捏ねるのだが、今日はそれがない。さらに、母親の幸恵が出掛けている今、裕太にはその時間がねっとりと長く感じられた。
だが、黙ってご馳走を見守るほど裕太の思考は大人びていない。また手元まで引き寄せた。そして、大きく口をあけて「いただきます!」と叫ぶように言うと、ひとりもぐもぐとショートケーキを平らげた。
食べ終わると、クリームの少し残った皿を背伸びをしながら流しに置いた。
それからテレビをつけて、チャンネルをころころと回しながら、何もせずごろごろとしていた。
妹の真奈が近くの大学病院に入院してからしばらく経つ。月に一回ある遠足から帰ってきて、感染症が原因の高熱を出した真奈は、熱に浮かされながら救急車で病院まで運ばれた。大袈裟な幸恵が慌てて救急車を呼ばなければ生命の危機に陥っていたというから、その晩遅くに帰ってきた父の幸雄は急いで病院まで駆け出していって真奈のそばで見守っていたという。
そんな夜の事を裕太はおぼろげに覚えていた。午後9時くらいにけたたましいサイレンを鳴らして家の前に止まった救急車は、眠りかけていた裕太を起こして玄関へと誘った。そこでは、甚だしい様子で幸恵がストレッチャーにすがり付いてついていくのを見た。今までに見たことがない程の母の慌てぶりは、6歳の裕太には新鮮そのもので、その事の大きさを理解するのには多少の時間を要した。
普段はにこやかで和やかな幸恵だが、裕太が怪我をして帰ってきた時には慌てて絆創膏やら消毒液を持ち出して手当てしてくれる、そんな人である。真奈が生まれてからはそちらの方に関心を向けるようになったが、裕太には変わらず優しく接していた。父もまた裕太には甘かった。親馬鹿が過ぎて端からみて痛々しいほどだったが、裕太には自慢話として語れるくらい嬉しいものだった。しかし、彼もまた真奈が生まれてからはそちらに心を寄せていった。
裕太自身は真奈のことが嫌いではない。むしろ可愛い妹の存在は頼もしいものだった。外に出れば大人は大抵「可愛い子やねぇ。将来はべっぴんさんや」と真奈を褒めるし、その時は裕太のことも「ええお兄ちゃんやなぁ」と褒めてもらえる。だが人の目を独占する真奈は、裕太に寂しい思いをさせる事も多い。
幸恵と幸雄はおてんばな真奈の面倒をみるので手一杯で、裕太の事をあまり見てくれない。おやつは二人分用意されるが、毎日決まって真奈は裕太に「ひとくち!」と言っておやつの一部を要求してくる。しかも幸恵は真奈を優先するので、裕太はおやつを真奈に分けなければならなくなった。
嫌だと駄々を捏ねても、幸恵はお兄ちゃんなんだから、と真奈を贔屓にする。
だから内心、裕太は真奈が羨ましかった。出来るものなら自分と真奈をそっくりそのまま入れ替えてしまって、自分が真奈になっても良いと思うほどに。それでも裕太は、そうやって人にちやほやされてにこにこと太陽のような笑顔で笑える彼女が大好きだった。
だが、そんな真奈が今は居ない。注目を集める真奈が居なくなった事で、ある種得意になっていた裕太だったが、喜べなかった。家族の中心的存在となっていた真奈が場所を少し変えて居なくなっただけで、全てがそれに引きずられるようにして真奈のいる方へ移っていったからだ。
今裕太がひとり家で留守番をしているのも、幸恵が真奈の着替えを持っていっているからである。
遠くに居るわけではない。家の近くの大学病院に入院しているだけだ。
裕太は余計に寂しくなった。大好きだけどおやつの時は憎たらしくてたまらない妹。しかし、真奈が居ない日常は静寂そのものだ。テレビのチャンネルを独占できる喜びも、真奈が隣に居ないのでは実感できない。
裕太は一通りのチャンネルを眺め終わるとテレビを切って、ソファーに横になり静かに目を閉じた。その時、何故か目頭に涙が込み上げた。
「ゆうちゃん、ただいま~」
幸恵の声だ。裕太は慌てて涙をぬぐった。
「今日は晩御飯、何にする?」
幸恵は靴を脱ぎながら玄関で喋った。
「いらへん」
少しつんとして言った。
「どうしたん。元気ないなぁ。あ、さては真奈の事が心配なん?」
「そんなんちゃうもん」
せっかく堪えた涙が、また零れそうになる。
「やったら、くよくよせんと。ほれ、あんたお兄ちゃんなんやろ?」
そう言って幸恵が裕太の座るテーブルに差し出したのは、ひとつの紙袋だった。裕太が大好きなケーキ屋のロゴマークがついている。恐らく裕太の好きな窯焼きシュークリームだろう。
「シュークリーム?」
「そやで」
「見て良い?」
「ええよー」
幸恵はそう言うとテーブルに置いた買い物袋から忙(せわ)しく牛乳や卵を取り出して冷蔵庫に詰め込み始めた。
裕太は紙袋をとじていた紙テープを破らずに剥がすと、袋の口を開けて中を覗き込んだ。中には黄金色に輝くカスタードシューとチョコシューが二つ、保冷剤を従えて鎮座ましましていた。生地の端がちょっぴり焦げたシューは、やたらと美味しそうな雰囲気を醸し出している。
「食べて良い?」
裕太は目を輝かせた。
「ひとつは真奈のやで」
「でも、真奈ここに居らんやん」
「ほな、届けたったらどう? 真奈にそのシュークリームを届けに行くねん。お母さん今時間忙しくていからいけへんの。やからかわりに裕太が行って届けたって。真奈喜ぶでぇ」
幸恵はふふふと不敵に笑った。
裕太はしばらくの間、袋の縁からシューを覗いた。
「母さん、行ってくる」
裕太は椅子から飛び降りると、赤白帽を被ってゴムを顎にかけた。幸恵は待っていたようにコップのついた水筒を裕太に渡すと、右目でウィンクして「気を付けてね」と裕太を送り出した。
クロックスに足を滑り込ませて、病院へ向かい歩き始めた裕太は、4時の日射しの中、ひとりシューを大事に抱えていた。何の事はない。いつも幸恵と風邪を引いた時に行く道を通れば着く。だが、母についくだけだった裕太には新大陸を目指して航海を始めたばかりの探検者のような緊張感があった。
ブランコで遊ぶ同級生を横目に流して小高い丘の公園を通り抜け、坂道を下れば、クスノキの街路樹の隙間から白い巨大な立方体が姿を現す。 しかしこの日は運悪く道路工事を行っていたので、公園をぐるりと回って遠回りしなければならなかった。
仕方ないので工事中迂回の人形看板に従うままクスノキの枝が張り出した坂道を横に下って、町の中学校が見える通りに出た。小学校に行く道で寄り道をしていた時に通った道だから、そこまで怖くなかったが、一番の問題は霊園のあるお寺だ。人の多い大通りでも、陰気な石柱が立ち並ぶ霊園は人気(ひとけ)がなくて暗い。さらに木魚の連続する音がその恐怖心を掻き立てた。
裕太は紙袋を両腕でぎゅっと抱えて、足早にお寺の前を通り過ぎようとした。
そこに近所のガキ大将がっちょんの一行が通り掛かった。目の前に立つ者を威圧するような大柄な体格で、性格も傲慢である。横暴なる暴君にシュークリームが見つかっては、その場で奪われて喰われてしまう。目的地を目の前にしてまた一難。裕太はそろりそろりと生け垣に隠れながらやり過ごそうとするが、一行のひとりが裕太の方向を指差した。
(見つかった……!)
裕太はその瞬間生け垣から飛び出し、大通りを大学病院へ向かってまっしぐらに駆け出した。しかし、逃げたのが分かっていて見逃すガキ大将ではない。すぐさま取り巻きどもに後を追わせる。がっちょん一行の精鋭たちはみるみる内に裕太との間を詰めてくる。
目の前の横断歩道を越えれば、もう終着点だ。裕太は走った。左足のクロックスが車道の真ん中で脱げようとも振り返らず、必死に自動ドアへと駆け込んだ。幸い、裕太は点滅し始めていた時に渡ったので、丁度赤信号に引っ掛かったがっちょん一行は悔しそうな顔で信号前に立ち尽くしていた。
裕太は息を整えてから、紙袋を持ち直してロビーへ足を踏み入れた。しかし病院のロビーを所在なさげにうろちょろとした。カウンターの看護婦に話しかけようにも、どう話せば良いかわからなかったのだ。
「坊や、どないしたの?」
声をかけられて振り返ると、点滴をした白髪のおばあさんがにこやかに立っていた。腰が曲がっていて、鼻にチューブを挿している。
「妹に会いに来てん」
「まあまあ、そらぁ偉いなぁ。ひとりで来たん?」
無言で頷いた。おばあさんの目線は、裕太の裸の足にいく。
「まあ、そりゃすごいね、頑張ったなぁ。ええ子や」
おばあさんは裕太の頭を赤白帽の上から撫で回すと、ポケットからパインドロップを出した。だが、裕太はかぶりをふり、断った。するとおばあさんはますます笑みを深くした。
「せや、妹ちゃんのお名前はなんて言うん? おばちゃんが看護婦さんに聞いたるで」
「ええの?」
「良いよ~!」
裕太は素直に真奈の名前を告げた。おばあさんは、カウンターの看護婦に用件を話すと、後は頑張りや、と笑ってロビーの奥の待合椅子に腰を下ろした。裕太はおばあさんに向かってペコリと頭を下げると、看護婦さんについて、真奈の病室へ進んでいった。
病室の扉はオレンジ色で磨りガラスが入っている。目の前の巨大な扉は、看護婦さんによって開かれた。
病室に入ると、すぐ右手にカーテンの引かれたベッドがあった。看護婦は優しく笑って病室を後にした。
裕太はカーテンを前にして改めて紙袋を抱え直す。そして、カーテンを引いた。
病床の真奈は、つまらなそうに綾取りをしていた。だけれど、裕太を見た途端、ベッドから跳び上がりそうなくらいの勢いで「お兄ちゃん!!」
と声を張り上げた。幸い隣の老人は寝ていて気付いてない様子だった。
「真奈、おかあがシュークリーム買ってきたって」
裕太は力を込めすぎてしわくちゃになった紙袋をベッドの横のデスクに置いた。それから辛うじて届く背で電灯をつけると、紙袋を開けてシュークリームを取り出す。真奈は楽しみで仕方ない様子で、ベッドをパンパンと叩いた。
けれど、シュークリームは道中の出来事で裕太が力を入れすぎたあまり、中からカスタードを吹き出して、ぺったりと平らになってしまっていた。
それを見た裕太は、嗚咽を堪えられなくなった。シュークリームが潰れた事で、裕太が我慢してきた感情が一気に溢れだしたのだ。真奈に会えなかった寂しさが爆発した。
「──まなぁぁああ! はよぉ帰って来てよぉぉぉおおおお!!!」
突然声をあげて泣き出した裕太を見て真奈は驚きを隠せず慌てた。
「兄ちゃんどないしたん! 靴は!?」
裕太は立ち竦んで泣き続けた。
「はよぉ帰って来てやぁぁぁあ! おやついくらでもあげるからぁぁああ!」
真奈はしばらく泣いている兄を見つめた後、何か思い付いたように手を打った。
「せや、兄ちゃん。真奈、兄ちゃんのシュークリーム、ひとくち欲しい!」
裕太は泣きすぎて赤くなった目を擦った。
「……ひとくち?」
「お兄ちゃんのチョコシュー、ひとくちちょうだい!」
裕太は真奈がひとくちしか欲しがらなかったのを不思議に思ったが、鼻をすすって胸を張った。
「今日は……半分あげる……。半分食べてええ!」
その時、真奈の顔がにわかに明るく咲いた。
裕太はこのときの妹の顔を今でも嬉しかった思い出として心の片隅に残している。
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