おじいちゃんとチワワのやすきち

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   その一 おじいちゃんとやすきち 「チュンチュン、チュン」  電線にすずめが一羽止まりました。 「チュン、チュンチュン」  もう一羽のすずめが飛んできて、二線張られた向かいの電線に止まりました。すずめはピョンと飛んで、向かいの電線に止まったすずめの隣に移りました。 「チュン」  すずめは一鳴きして飛び立ちました。もう一方のすずめも後を追い、青空に羽ばたきました。二羽のすずめは初冬の朝日に照らされながら、空中で追いかけっこを始めました。  小さな羽根をせわしく動かしながら空を飛び回っていましたが、やがて簡素な住宅街のとある一軒家の庭先に降り立ちました。  竹村さん家の庭の片隅に放置されている、荒れ果てた犬小屋の屋根の上に木箱があり、その中に米ぬかが入っているのです。すずめたちはその米ぬかを食べにきました。 “スタスタスタ、テクテクテク”  竹村さん家は垣根に囲まれており、その庭に面した路地は駅へと急ぐ会社員や学生たちが歩いていました。隣のアパートからは学校に通う小学生たちがぞろぞろと出てきて、駅とは反対の方角に歩いていきました。  平日の朝、竹村さん家の前の路地は車がほとんど通りませんが、もくもくと歩く人達の足音がしていました。  竹村さん家の縁側に掛けられたカーテンの隙間から、明かりが差し込んでいました。そして、縁側の奥にある二つの部屋にも、障子越しにしだいに明るくなっていきました。 “ボーン、ボーン、ボーン――”  居間の柱に掛けられていた大時計が、九つの時を告げました。  八畳の居間には、中央にテーブルと二人掛け用のソファが置いてあり、縁側の方の片隅にテレビ、その横には犬用のケージが置かれていました。とびらが取り外されたケージにはトイレトレイの他、犬用のベッドが置いてありましたが、犬の姿は見当たりませんでした。  もう片方の寝室には、中央に布団が敷かれていました。周囲には掛け軸が飾られた床の間、押入れ、それと洋服タンスがありました。部屋はしーんと静まり返っていました。 “ボーン”  大時計が再び鳴って、九時三十分を告げました。  寝室の布団の上で、動めくものがありました。ゆっくりと顔を上げたそれは大きな欠伸をしました。むくっと起き上がった毛むくじゃらのものは、胸元を布団につけるほど体を沈めて、腰を上げてぴんと背伸びをしました。  ご主人の足元で寝ていたチワワのやすきちは、回れ右をして枕元まで歩いていきました。 “おはよう、おじいちゃん”やすきちはおじいちゃんの口元をペロペロと舐めました。“もう朝だよ、今日もいい天気だよ”  いつものことであれば、すぐにおじいちゃんは起きてくるのですが、今朝は様子が違いました。いくらやすきちがおじいちゃんの顔を舐めても、嫌がる素振りもしませんでした。 “ねぇ、そろそろ目を覚まして起きてきてよ。僕お腹空いちゃった”  やすきちは不思議に思いながら、おじいちゃんの横顔を見つめました。おじいちゃんはただ目を閉じて、安らかに寝ていました。  やすきちは前足を上げて、おじいちゃんの肩の辺りをとんとんと叩いてみました。 「クーン……クーン」  おじいちゃんの耳元で鳴いてみたりもしました。  やすきちは枕元で前足を前に突き出して、後ろ足を立ててお尻を持ち上げました。 「ワン、ワン、ワン」  かん高い声で何度も鳴きましたが、おじいちゃんは目を覚ますことはありませんでした。 「やすきちくんが鳴いているので来てみました。おじいちゃん、今朝はどうかしましたか?」  寝室の奥にある中廊下から声がしました。やすきちは扇のような尻尾の毛を左右に激しく振りながら、声のする方へ駆け寄りました。 「ワン、ワン」 「そこにいるの? やすきちくん、部屋に入るわよ」ふすまがそっと開きました。「お邪魔します」  やすきちは竹村さん家の隣のアパートに住んでいるおばさんを見つけました。 「やすきちくん、おはよう。今朝も寒いわねぇ」おばさんはしゃがみ込んで、やすきちの頭を優しくなでました。「おじいちゃんはまだ寝むっているの?」 “そうだよ”  やすきちは高らかに鳴きました。  おばさんは寝ているおじいちゃんのわきを通り過ぎて、障子と縁側のカーテンを開けました。朝の明かりが暗がりの寝室に差し込んできました。 「おじいちゃん、もう朝ですよ。やすきちくんにご飯をあげてください」  おばさんはおじいちゃんが寝ている所まで戻り、おじいちゃんの顔を見つめました。 「おじいちゃん、おじいちゃん」  おばさんは幾度もおじいちゃんを呼びました。それでもおじいちゃんは黙ったままでした。  やすきちはおばさんのそばでお座りをして、おじいちゃんを心配そうに眺めていました。 「……まあ、大変」  おばさんは小さく叫ぶと、隣の居間に駆け込んでいきました。居間の壁に取り付けられた電話機の受話器をとり、どこかに電話をし始めました。 “おじいちゃん、ねぇ起きてよ”  やすきちはおじいちゃんのほほを舐め、目を覚ましてくれるのを待ちました。 「××病院ですか? 竹村さん宅にすぐ来てください。おじいちゃんが――」  隣の部屋にいるおばさんの声も、今のやすきちには届いていませんでした。  その日の夜、町内会の人達が竹村さん家に集まり、おじいちゃんの通夜を行いました。誰もが沈んだ表情をしていました。  やすきちは縁側に移されたケージの中の、ベッドにうずくまっていました。 “今日はやけに人が来ているなぁ。散歩の時すれ違ったことのある人もいる”やすきちは寝室にいる人達に聞き耳を立てていました。“おじいちゃん、今どうしているのかなぁ?”  やすきちは近所のおばさんに大好きなおじいちゃんから離され、ケージの柵にリードをくくりつけられたのでした。ですから、何でこんなに人が集まってきているのか、何でおじいちゃんに会えないのかわかりませんでした。 “だけど僕、お腹空かしたままなんだよぉ。今日は朝ご飯ももらってないし”  やすきちは頭をもたげて鳴きました。チワワの小柄な体格に似合わないほどの、大きな声で遠吠えもしました。 「やすきちくん、今日は静かにしていてね。独りぼっちにしておくのは可哀相だけど我慢してね」おばさんが台所の方からやってきました。「でも、そういえばご飯まだだったかしら」  おばさんはほほに手を当てて、首を傾げました。やすきちも一緒になって、首を傾げました。 「ごめんね、やすきちくん。ご飯ですよ」おばさんが後ろ手で持っていたお皿を前に持っていきました。「遅くなってごめんなさいね」 “やったー、ご飯だ。早くちょうだい”  やすきちがベッドから起き上がり、ケージを飛び出してきました。首輪につけられたリードがいっぱいに引っ張られ、やすきちは前足を高く上げ、後ろ足で立って待ちました。 「そう慌てないでね」  おばさんはやすきちの前にご飯の皿を置きました。やすきちは慌ただしくお皿に顔を突っ込んで、ドッグフードを食べ始めました。  おばさんはやすきちのそばにしゃがみ込んで、その様子を見ていました。 「やすきちくん、これから独りぼっちになるけど、おばさんが付いているからね。本当はおばさんの家で飼いたいんだけど、うちのアパートではペット飼育が禁止されているから……だから、やすきちくんはこの家で暮らしていくんだよ。毎日の面倒は私がみてやるから安心してね」  おばさんはやすきちに話しかけていました。おばさんの口調には、とても悲しくてせつないものがありました。  町内会の人達がそれぞれの家に帰り、竹村さん家にはやすきち独りになりました。やすきちはエアコンの効いた居間の暗がりの中、おとなしくしていました。 “おじいちゃんが寝室にいるんだけど、今日は一緒に寝ないのかなぁ。あれから一度も会っていないんだけど大丈夫かなぁ、僕心配だよ”  やすきちはベッドに体を丸くしながらつぶやきました。 「クーン」  心細くなって一鳴きしましたが、寝室からの返事はありませんでした。 “おじいちゃんのにおいがする……”  やすきちは鼻をくんくんさせて、安らいだ気持ちになりました。  次の日もその次の日も、やすきちはおじいちゃんに会うことはできませんでした。その代わり、やすきちの世話は近所のおばさんがやってくれました。朝夕の食事と散歩、お水とトイレシートの交換と――  やすきちは居間の片隅に置かれた、ケージの中にいつもいました。  食事を終えて散歩に連れ出される際、やすきちは寝室の方へ行こうとしますが、おばさんがリードを強く引っ張って、やすきちを家の外に連れ出していました。  やすきちはおばさんの前では強がっていましたが、心の中ではとってもさびしく思っていました。おじいちゃんの姿が見えない家の中で、独りぼっちでいるのですから仕方のないことでした。 “ガラガラガラ” 「やすきちくん、おはよう。ご飯を持ってきましたよ」  おばさんが曇りガラスが張られた引き戸を開けて、居間に入ってきました。  居間に置かれたケージを見たおばさんは、思わず首を傾げてしまいました。それはいるはずのやすきちの姿が見当たらなかったからです。 「やすきちくんは、どこにいるの?」  おばさんはカーテン越しに差し込む朝日の明かりを頼りに、部屋の中を見回しました。  次におばさんは音も立てずに足を運ばせて、居間を歩き回りました。自分が入ってきた引き戸は閉まっていて、台所へと続く引き戸も閉まっていて、寝室へと続くふすまも閉まっていて……  最後におばさんは開いている障子に目を向けました。縁側に面した障子は部屋の換気のために開けておいたのです。 「グウウ……」  何やらうなり声が聞こえました。おばさんは聞き耳を立てて、声のする方を見ました。  おばさんはゆっくりとした足取りで、いったん縁側に出ました。そーっと顔を出して寝室の中をのぞき込むと、敷かれた布団の上にやすきちがいました。きちんと並べて置かれた前足の上にあごを乗せ、上目使いでおばさんを見ていました。 “おじいちゃんがお家にいないんだ。ねぇ教えて、おじいちゃんはどこへいっちゃったんだよ”やすきちはおばさんに訴えかけました。“僕、大好きなおじいちゃんのそばにいたいよ。だから、おじいちゃんに会わせてよ”  やすきちの大きな瞳はうるんでいました。おばさんは思わず顔を歪ませてしまいました。 「おじいちゃんがいなくなってさびしいよね、やすきちくん」おばさんがつぶやきました。「ごめんなさい、おじいちゃんの代わりになれなくて……」  おばさんはそのまま寝室から離れて、居間のケージの中にやすきちのご飯を置きました。それから、やすきちをそっとしておきたかったので、こっそりと竹村さん家を後にしました。  おじいちゃんがなくなってから、四十九日が経ちました。新年になってここ一番の寒さでしたが、再び町内会の人達が竹村さん家に集まりました。   縁側に移動されたケージの中で、やすきちは目をつぶって寝むっていました。町内会の人達がおじいちゃんの話をすると、やすきちは耳をそば立てて聞いていました。 “ここ最近おじいちゃんの体の調子が悪くて、しょっちゅう家を留守にしていたんだもの。最初はすごく心配していたんだけど、今はもう独りで留守番するのも慣れてしまっちゃったよ。いつかはおじいちゃんが元気になって帰ってくるから、僕は平気だよ。それまで僕はここでおとなしく待っているもん、男の子だから……”  そう自分にいい聞かせながら、やすきちは大きな欠伸をして気をまぎらわしました。  やすきちの思いとは裏腹に、おじいちゃんはいつまで経っても家に帰ってきませんでした。  そんなある日、やすきちがベッドで寝ていると、ふと聞き慣れたなつかしい足音がしました。やすきちは重い頭を上げて玄関の方を見て、聞き耳を立てました。暗かったやすきちの表情が、いっぺんに明るくなりました。  竹村さん家の玄関の引き戸に、鍵が差し込まれる音がしました。引き戸がガラガラと開いて、靴を脱ぐ音がしました。ベッドの中で、やすきちは激しく尻尾を振っていました。  玄関の廊下に上がる音がしました。やすきちは喜び勇んでベッドから立ち上がり、ケージの門を駆けて出ました。 「キャン!」  やすきちは悲鳴を上げてしまいました。ケージにつながれていたリードに首を引っ張られ、体が宙に舞ったまま背中からジュータンに落ちたからです。   やすきちは痛みをこらえる間もなく起き上がりました。その時、やすきちがいる居間の引き戸が開かれました。 「まあ」  やすきちはおばさんの足元をすり抜けて、玄関へと走っていきました。玄関の引き戸の前で後ろ足で立ち上がり、前足のつめで戸口を引っかいて開けようとしました。 「ワン、ワン」  やすきちは大声で鳴きました。 「やすきちくん、お外に出たいの?」おばさんがやすきちに聞きました。「散歩は朝ご飯の後に行ったばかりでしょ。まだ、時間が早いわよ」  やすきちは振り返って、瞳をくりくりさせておばさんを見つめました。 「お外に出る時は、また首輪を付けないといけないわねぇ」  おばさんは首輪が外れたやすきちを見てつぶやきました。やすきちをつなぎ止めていたリードは首輪を付けたまま、ケージにくくりつけられていました。ゆるかった首輪がやすきちの頭をすり抜けてしまったのです。 “ここのドアを開けてよ。おじいちゃんが帰ってきたんだ”やすきちはおばさんに大きく一鳴きすると、再び玄関の引き戸を開けようとしました。“このかかとをするような歩き方、おじいちゃんがお家に帰ってきたんだよ”  おばさんは廊下に立って、やすきちの一生懸命さをただただ見守っていました。 “おじいちゃんがそこまで来ているんだ。迎えに出てあげようよ”  やすきちは回れ右をして、廊下に飛び乗りました。おばさんの横を通り抜けて、開けてあった正面のドアの向こう側に消えていきました。 「ワン、ワン、ワン」  やすきちは大声で鳴きながら駆けました。竹村さん家の奥にある台所、その横にある中廊下へと移動し、洗面所とトイレの前に行きました。 “おじいちゃん、僕はここだよ。ここにいるよ”  やすきちは中廊下の行き止まりまで行くと、隣の寝室に入っていきました。主がいなくなった寝室で、立てていた耳を左右に動かしました。そして縁側を抜けて居間に入りました。 「クーン」  やすきちは小さく鼻を鳴らして、両耳をうな垂れました。やすきちの耳に、おじいちゃんの足音が聞こえなくなっていました。  おじいちゃんの足音は、やすきちの空耳だったのでしょうか? 「やすきちくん、どこにいるの?」  おばさんがやすきちの後を、鳴き声を頼りに追っていました。家の中を回って寝室を抜けると、縁側に置かれた一人掛け用のソファの上で、やすきちが体を丸めているのを見つけました。  そのソファはよくおじいちゃんが昼間座っていて、日向ぼっこをしながら庭を眺めていたのでした。いつもやすきちはおじいちゃんのひざの上に乗っかり、今と同じように体を丸めて休んでいました。ただ、やすきちの大きな体が、今日はやけに小さく映りました。 「部屋の掃除は後にしましょうか」  おばさんはそうつぶやくと、部屋から出て行きました。やすきちは伏せていた耳をわずかに立てましたが、すぐに伏せてしまいました。 「ウオオーン」  やすきちが遠吠えをしました。それはまるで泣いているような鳴き声でした。 “おじいちゃん……”  やすきちはソファに敷かれた座布団に顔をうずめて、おじいちゃんのにおいをかいでいました。  チワワのやすきちは保健所にいたところを、おじいちゃんに引き取られたのでした。竹村さん家の隣のアパートに住んでいるおばさんの勧めで、独り暮らしだったおじいちゃんがペットを飼うことにしたのです。  最初おばさんはペットショップにおじいちゃんを連れて行こうとしましたが、おじいちゃんはこれを断りました。 「町の保健所に連れていってもらいたい」  おじいちゃんは飼い主の身勝手さによって、多くのペットたちが保健所に預けられる現状を知っていたのです。保健所には様々な種類の様々な大きさの様々な年の犬猫が、おりの中に入れられていました。  おばさんは生まれてからほんの二ケ月くらいしか経っていない、ころころした子犬たちを勧めましたが、おじいちゃんは見向きもしませんでした。おじいちゃんはいくつもあるおりを一つひとつ見て回ってから、指差していいました。 「あの大きな犬にしよう」  それはおりの片隅にいて、こちらに背を向けてうずくまっている薄汚れた犬でした。  保健所の人がおりからその犬を出してきました。保健所の人の胸元に抱きかかえられた犬は、最初暴れていましたが、やがておとなしくなりました。 「この犬チワワだけど、犬の中でも一番小さな犬種なのよ」おばさんはいいました。「でもこの犬チワワにしては大きいわねぇ。それにチワワっぽくない不細工な顔つきだし」 「チワワだろうが何だろうが、同じような犬だろ。大きくなるのは当たり前だ。それに犬の顔は人と同じでいろいろだろ。それを個性というものだ」おじいちゃんは腕組みをしながら不機嫌そうにいいました。「あんたがいう通り犬を選んだのだから、それでいいじゃないか」 「おじいちゃんがペットを飼うことが嫌なのはわかるけど、一日中家に閉じこもっていても、楽しくないでしょ。犬でも飼えば心もいやされるわよ」  おばさんはチワワの頭をなでました。チワワは嫌がって、保健所の人の胸から体をよじって、おばさんの手から逃れようとしました。 「私の方が先に死んでしまうかもしれないのに、犬の世話なんてやってられるか」  おじいちゃんはそっぽを向きながらいいました。 「その時は、私がこの子の面倒をみるわよ」 「……そうしてくれ」  こうして、やすきちは竹村さん家にやってきたのでした。  やすきちは朝の散歩から帰ってくると一目散に縁側に行って、おじいちゃんが座っていたソファの上に寝そべって、一日を過ごすようになりました。やすきちが目を閉じると、おじいちゃんと過ごした日々を夢にみることができました。  お皿に盛られたドッグフードを夢中で食べるやすきち。そのそばでおじいちゃんが自分で作った質素な料理を黙々と食べています。  立ち止まっては後ろを振り返るやすきち。おじいちゃんの歩く早さに合わせて散歩を楽しんでいます。  おじいちゃんのひざの上で丸くなっているやすきち。やすきちの背中におじいちゃんの温かい手が添えられています。  竹村さん家の庭でボールと追いかけっこするやすきち。縁側に座ってやすきちにボールを放り投げてやるおじいちゃんがいます。  ふかふかな布団の上で寝るやすきち。おじいちゃんの足元ですやすや寝息を立てています。  そんな楽しかった日々の中、こんなことが一度きりありました。それはやすきちがおじいちゃんのひざの上で丸くなって、庭に降り立ったすずめの鳴き声を静かに聞いていた時でした。  突然おじいちゃんが口を開いたのです。子供の頃の楽しかった思い出話、初恋の人と一緒に過ごした日々、長男や孫が生まれて成長していく過程での喜びの話、妻に先立たれて悲惨にくれた話、息子に親子の縁を切られたせつない話を語りました。  おじいちゃんは息子の話になると、重い口調でつぶやくように途切れ途切れにいいました。  おじいちゃんのひざの上で寝そべっているやすきちの頭に、しずくが一粒落ちてきました。やすきちは不思議そうに顔を上げて、おじいちゃんに目をやりました。 「年を取ると、るいせんが……ゆるくなって困る」  耳を垂らしたやすきちは、涙をこぼしたおじいちゃんを悲しげに見つめました。おじいちゃんはやすきちと目を合わせ、しわくちゃな手でやすきちの頭をなでました。 “おじいちゃん、どこか体が痛いの? 僕が直してあげるからはやく良くなってよ”  やすきちはむくっと起き上がっては後ろ足で立ち上がり、おじいちゃんの顔を舐めるのでした。  やすきちは思いにふけながら、おじいちゃんのソファの座布団に鼻を押し付けて、大きく息を吸い込みました。自分のにおいの中、かすかなおじいちゃんの残り香を嗅ごうとしていました。おじいちゃんのにおいが付いていた座布団にも、やすきちの犬のにおいが染み付いていました。  あくる日、ご飯を持ってきた近所のおばさんが、ソファの上の座布団を手に取りました。 「こんなに汚くなっちゃったわねぇ。きれいに洗ってあげるからね」  おばさんが居間で食事をしているやすきちにそういって、部屋を出ようとしました。 「ワンッ!」  やすきちは血相を変えて、おばさんの元へ走っていきました。高くジャンプして、おばさんが手にした座布団の端をくわえて取り返そうとしました。 「やすきちくん、どうしたのよ」  おばさんは驚いて、思わず座布団を離してしまいました。やすきちは座布団をくわえたままソファの上に飛び乗り、そこから動こうとはしませんでした。 「グウウ……」  やすきちは低くうなり声を上げました。  おばさんは両手を腰に当てて、溜息をつきました。座布団に乗っかって前屈みになって自分を見上げている、やすきちに向かって優しくいいました。 「だいぶ汚れてはいるけど、それはおじいちゃんが使っていたもんね。やすきちくんはおじいちゃんを思い出すのかしら……」  やすきちはおばさんに背中を見せて、座布団にうずくまりました。もうそこには、おじいちゃんのにおいは消えてなくなっていました。    その二 お兄ちゃんとやすきち  朝と夕方、近所のおばさんがチワワのやすきちに食事を与えて散歩に連れ出す以外は、やすきちはおじいちゃんのソファの上に寝そべって、時間を過ごすことが習慣となりました。  春のそよ風が吹くその日も、やすきちはおじいちゃんの幻覚を耳にしました。何度も何度も空耳になったおじいちゃんの足音、右足のかかとを地面にこすって歩く足音でした。 “ガラガラガラ”  竹村さん家の玄関の引き戸が開く音がしました。靴を脱ぎ、廊下を歩く音がしました。居間の曇りガラス張りの引き戸が開く音がしました。  やすきちはまた『これも夢なんだ』といい聞かせながら、かたくなに目をつぶっていました。  やすきちがいる縁側のソファの他に、居間の中央に二人掛け用のソファが置いてあります。ちょうど、おじいちゃんのソファの背もたれ越しにありました。重い物がジュータンに置かれる音と、ソファに沈み込む音がしました。  しばらくして、やすきちの鼓動と共に、規則正しい寝息が居間の中にしてきました。やすきちは鼻で吐息をついて、また眠りにつきました。  縁側がちょっと肌寒くなった夕暮れ時、やすきちは目を開けました。むくっと起き上がり、ぴょんとソファから飛び降りました。大きな欠伸をしてから、ケージの方へ歩いていきました。  ケージの中に置かれたトイレトレイの上でおしっこをすると、ケージから出ていきました。眠気まなこのぼんやりとした頭でソファに上って、暖かい温もりの中で丸くなりました。  やすきちはおじいちゃんのにおいを鼻腔で感じ取り、夢見心地で寝に入りました。 “……”  深い眠りから覚めた時、ひざの上が何やら重くて温かいのを感じました。  ゆっくりと目を開けて焦点の定まらない視線をひざ元に向けると、そこには毛むくじゃらな毛皮が置いてありました。振り返ってこちらを見た毛むくじゃらと、目と目が合いました。 「うわぁ」  二人掛け用のソファに座って眠り込んでいた青年が、驚きの声を上げました。青年は身体を起こしてソファから立ち上がろうとしました。やすきちは素早い身のこなしで青年のひざの上から飛び移りました。 「なっ、なんで犬がここにいるんだ。それも放し飼いになって」  青年は悲鳴にも似た声を上げました。やすきちはふさふさの尻尾を激しく振って、舌を出して喜びを表現していました。  青年は恐れおののきながら後ずさりをして、ソファの角につまずいてしまいました。やすきちはジュータンに尻餅をついた青年のお腹の上に乗り、青年の顔をペロペロと舐め始めました。 「うわぁ、やめてくれぇー」  青年は小さな犬に対して、大変おびえていました。両腕を顔の前で交差させ、やすきちの舌舐めずりから逃れようとしました。 「あらら、やすきちくん。こんなに大はしゃぎするのは久しぶりね」おばさんの声が背中の方から聞こえました。「ほとんど人になつかない犬なんだけど、大層気に入られちゃったようね」 「こっ、この犬を離して下さい。僕はいぬが、犬が苦手なんです。はやく、早くして下さい」  青年は体をくねらせて、やすきちから逃げ回りました。それでもやすきちは青年を追いかけて、そばから離れようとはしませんでした。 「やすきちくん駄目よ、この人から離れなさい。それにご飯よ、ご飯」  やすきちはおばさんの『ご飯』という言葉に反応して、おばさんの周りを走り回りました。 「まあ、どうしましょう」  やすきちが離れた場所に、気を失って大の字で仰向けに倒れている青年の姿がありました。  蛍光灯に照らされた居間のソファに、おばさんと青年が並んで座っていました。そのそばでケージにリードをくくりつけられたやすきちが、夕飯を食べ終えてベッドに横になっていました。 「この家に住んでいいし、この家にあるものは全て自由に使っていいし、多少のお小遣いもあげるわ。ただし前にも話したように、そのチワワの世話をしてくれるならの話なんだけど」おばさんが青年にいいました。「まあ、チワワの世話といっても、朝と夕方に食事をやって、それから散歩に連れて行き、夜にトイレシートをかえてあげて……」  ふと言葉を止めたおばさんは、うつむいている青年の顔をのぞき込みました。 「たまにはチワワと遊んであげて、月に一回近所のペットショップにトリミングに出してね。貴方が来てくれるのなら、私はこの家とこの犬の面倒から解放されて一安心できるのよ」 「……犬には近づかなくても、せめて触れなくてもいいですか?」  おばさんはソファの背もたれに背中をつけて天井を見ました。考える振りをしながら、青年の顔に視線を戻しました。心の中ではちょっと青年に意地悪してみたくなりました。 「このチワワは人一倍、いいえ犬百倍、千倍ものさびしがり屋だから、一日十回以上は頭をなでてあげないといけないし、一日二十回以上はほめてやらないといけないの」 「僕は犬が苦手でして。覚えてはいないのですが、赤ん坊の頃犬に引きずられたことがあって」 「それはまだ貴方が小さかった時の話でしょう。今はもう立派な大人なんだから、こんな小さな犬に怖がっていちゃ、大人が務まらないわよ」 「そういわれても、身体が勝手に反応してしまい」 「慣れよ、慣れ。それに犬に引きずられたという記憶が、貴方自身ないのだからいいじゃない」 「もし、もしも一日十回以上頭をなでてやらなかったら、どうなりますか?」 「チワワの方からすり寄ってくるわ」 「ひもでつながれていても?」 「そう、ひもでつながれていても」おばさんは腕組みをして声を上げました。「これから一緒に一つ屋根の下で暮らすのだから、コミュニケーション、もといスキンシップを図りなさい」 「はぁ」 「これは貴方のおじいちゃんの頼み事なんだから、私からもお願いしますよ」  おばさんは溜息を一つつきました。 「このチワワの名前なんだけど」おばさんは穏やかにいいました。「このチワワの名前は、やすきち――貴方のお父さんの名前なんだよね」  青年は初めて顔を上げておばさんを見ました。おばさんは目を細めて微笑んでいました。 「おじいちゃんがこのチワワの名前を呼ぶ時の顔といったら、貴方にも見せてあげたかったわ。優しい目をして、遠い昔をなつかしんでいるような……」  青年はケージに入っている犬に目を向けました。 「私はこれで家に帰るけど、今からちゃんとチワワの世話をしてちょうだい。親子のコミュニケーションは取れなかったみたいだったけど、貴方ならできるわよ。それに――」  青年はおばさんの話を黙って聞いていました。  おばさんはソファから立ち上がって、ケージの前でしゃがみ込みました。 「やすきちくん、これからはこのお兄さんと仲良くしてあげてね。お前はいい子なんだから、お兄さんを困らせては駄目だよ。お兄さんはおじいちゃんと違って気弱なんだから」  おばさんはそうして居間から出て行きました。しばらくの間、家の中は静寂に包まれました。  わずかに布がすれる音がして、ケージに近づく足音がありました。ベッドにいたやすきちは、ゆっくりと顔を上げました。青年がケージから離れた所にひざをついて、姿勢を正してやすきちを見ていました。  やすきちはむくっと起き上がって、尻尾を振りながら青年を見つめました。 「……よっ、よろしく」  青年がぽつりといいました。 「ワン!」  やすきちはケージの前まで出ていき、大きく一吠えしました。  その日の夜、青年が寝室に敷かれた布団に入って寝ようとしたところ、隣の居間にいたやすきちが鳴きだしました。 「アンッ、アンッ」  青年は寝返りをうって聞こえない振りをしましたが、やすきちの鳴き声は止むことはなく、かえって大きくなっていきました。それにつられて、近所の犬達も鳴きだしました。 「これでは、周囲に迷惑かな? いつも家の中に独りきりでいたのだから、平気なはずなのに」  青年は布団から起きだして、居間へと続くふすまを開けました。豆電球だけが点いた暗がりの中、小犬が瞳を輝かせながらこちらを見ていました。鳴き声が一瞬止みましたが、うれしそうに再びやすきちが鳴きだしました。  青年は四つんばいになってやすきちに近づきました。やすきちはケージの外に出てぴょんぴょんとはね回りました。その都度、リードが引っ張られました。  青年は人差し指を口元の前で立てていいました。 「しぃー。おとなしくしていて」  やすきちは首を傾げながら青年を見て、お座りをしました。 “このチワワは人一倍、いいえ犬百倍、千倍ものさびしがり屋だから”青年は先程のおばさんの言葉を思い浮かべました。“それに、貴方とやすきちくんなら大丈夫よ。だって貴方が以前この家を見に来たとき、やすきちくんは貴方の後を追いかけて家中駆け回っていたのよ。まるでおじいちゃんの幻影を追っているように” 「おじいちゃんのことは、僕全く記憶がないんだ。だけど、お前はおじいちゃんのこと覚えているんだな。なぁ、おじいちゃんのことを教えてくれよ、どんな人だったんだい。それから、僕とおじいちゃんのどこが似ているの?」  青年はやすきちに問いかけました。やすきちは両耳をぴんと立てて話を聞いていました。  青年は寝室に戻って、掛け布団を取ってきました。二人掛け用のソファに横になって、やすきちの視界に自分の姿が入るようにしました。 「もう独りぼっちじゃないのだから、これからは安心しておやすみ」  やすきちは静かになり、ベッドの中で丸くなりました。  それから犬が苦手で気弱な青年と、チワワのやすきちとの同居生活が始まりました。  青年がやすきちに食事と水をやる時、お皿をほうきの柄でやすきちのいる方に押し出してやりました。また、おばさんがやすきちを散歩に連れ出している最中に、お皿の回収とトイレシートの交換、ケージの中の掃除をしました。今だ青年はやすきちに触ることすらできずにいました。 “タッ、タッ、タッ、タッ”  ある日、散歩から帰ってきたやすきちが家の中に駆け込んできました。おばさんがうっかりしてやすきちを放してしまったのでした。  やすきちは勢い込んで廊下を走って、居間に入ってきました。居間の奥にいた青年はタンスの上の小物を眺めていましたが、いきなりやすきちに飛びつかれて慌てて振り返りました。 「うわぁ」  青年はやすきちを見ると反射的に後ろにのけ反り、背中を激しくタンスにぶつけました。そのまま力が抜けたようにずるずるとくずれ落ちました。やすきちが青年の前で、舌をだしてハァハァ荒い息をしていました。  青年の頭に当たるものがあり、それが青年とやすきちのちょうど真ん中に落ちてきました。タンスの上に置いてあったボールでした。  やすきちはすかさずボールに突進していき、大きな口を開けてそれをくわえようとしました。しかし、幾分ボールが大きいのか、やすきちの鼻先でジュータンの上をころがっていました。  ころころところがったボールは、青年の足に当たって止まりました。  青年はボールとやすきちを交互に見つめました。やすきちは尻尾を振りながら前足をジュータンにつけ、後ろ足を立てて前傾姿勢をとりました。 “遊んで、遊んで”  やすきちはもう一鳴きしました。青年は驚いて、思わずボールをけっていました。ボールはやすきちの脇を通り過ぎていきました。  やすきちはボールに向かっていきました。飛びついては離れ、離れては飛びついていました。ボールはその度方向を変えてころがっていました。  やすきちはやっとボールを口にくわえて、青年の元に戻ってきました。青年の足元にそれを置くと、舌を出しながらお座りをして待っていました。 「ワンッ」  やすきちが鳴きました。  青年はやすきちを見つめながら手探りでボールをつかみ取り、部屋の先にある縁側の方へ放り投げました。やすきちはボールを追って、縁側に駆けていきました。  再度やすきちがボールをくわえて、青年の所へ戻ってきました。青年はボールをとっては縁側に投げてやりました。青年とやすきちのボール遊びは続きました。  ふと青年は手にしたボールを投げる振りをしました。やすきちはすぐに振り返って、縁側に走っていきました。  縁側で周囲を見回して、床に鼻をつけてはにおいをかぎまわって、ボールを探そうとしました。その仕草に青年の口元はゆるんでいました。 「……やすきち」  青年は犬の名前を恐る恐る呼んでみました。やすきちは動くのを止めて青年を見ました。  青年はボールをやすきちの方へと投げてやりました。やすきちは尻尾を激しく振って、ボールを相手に楽しそうにじゃれていました。 「たっ、大変よ。やすきちくんが逃げてしまったの。車にでもひかれたら、私どうしよう……」  おばさんが息を切らしながら血相を変えて居間に駆け込んだ頃には、やすきちはおじいちゃんのソファの上で丸くなっていました。  青年はやすきちの体に一向に触れないものの、やすきちがそばにいても大丈夫なようになりました。青年は何かあるごとにやすきちの名前を呼ぶようになりました。  おばさんがやすきちを散歩に連れていく習慣も、青年がやるようになりました。おばさんは一切のやすきちの面倒を、青年にまかせるようにしました。  そんなある日の朝、やすきちの食事の時間になっても、青年が寝床から起きてくる気配がありませんでした。 「クーン……クーン」遠慮がちだったやすきちの鳴き声は、しだいに大きくなりました。「ワンッ、ワンッ」  やすきちはあらん限りの声を上げて鳴きました。五、六分そうしていたでしょうか、やすきちは鳴くのを止めました。  やすきちはケージの外にいったん出て、ぴょんと前足をケージの柵にかけて、後ろ足で立ち上がりました。ケージにくくりつけられているリードを口で解こうとしました。  辛抱強く団子になったリードを引っ張っていると、やがてリードの結びはゆるんできました。そして、やすきちはリードを解くことに成功したのです。  やすきちは青年が寝ている部屋を目指して、とことこと縁側を回っていきました。寝室の入口でちょっと立ち止まり、青年がいることを見届けると枕元に歩み寄りました。 “ねぇ起きてよ、僕お腹空いちゃったよ”やすきちは青年の顔を舐め回りました。“もう朝だよ、はやく起きてちょうだい”  青年の顔がなんだか塩っぽい感じがしました。やすきちは不安になりました。  やすきちの脳裏に一瞬おじいちゃんの苦い思い出がよみがえりました。いたたまれない感情がやすきちの心にわいてきました。もう目を覚ますことがないのではないかと思って…… 「ワンッ!」  やすきちは青年の耳元で大きく鳴きました。 “目を開けてよ、お兄ちゃん”やすきちはいいました。“お兄ちゃん、起きてきてよ”  やすきちのふさふさな尻尾は垂れ下がり、両耳は後ろにねた状態になっていました。目はかたくつぶったまま、青年の枕元で体を伏せていました。 「クーン、クーン」  やすきちの声はすすり泣きみたくなりました。  うな垂れるやすきちの頭にふれるものがありました。それは優しくて、温かいものでした。  やすきちが目を開けると、そっと頭をなでている青年の手がありました。青年は瞳を閉じたまま、顔に当たるものが何であるかを知るために、手探りしていました。  青年はぼんやりとした意識の中で、親から聞かされた昔話を思い出していました。  青年が赤ちゃんの頃、自宅で火事がありました。自宅にはおじいちゃんと自分の両親とで住んでいましたが、その時は青年しか家にいませんでした。  燃えさかる炎とむせる煙の中、赤ちゃんは布団の中で大泣きしていました。  このままでは助からない状況でしたが、青年は家の外に連れ出されていました。赤ちゃんのそばには全身やけどを負い、体毛が焼け焦げていた一匹の柴犬がいました。  近所の人達が駆け寄った時には、犬は息も絶え絶えでしたが、赤ちゃんの顔を必死に舐めていたそうでした。しかし、その犬はすぐに息を引き取ったそうです。  父親が可愛がっていたメス犬で、青年の家の庭先で飼っていました。その日も犬小屋にいるはずでしたが、首輪が取れていました。  近所の人の話では、たぶんこの犬が泣き叫ぶ赤ちゃんの声を聞きつけ、首輪を外して家に入っては赤ちゃんの服の襟首をくわえ、赤ちゃんを引きずって家から連れ出したのだろうかと……  赤ちゃんの腕や足には擦りむいた、引きずられたような傷跡があり、その首元は着ていた服で絞めつけられたような痕がありました。  こうして、青年は自宅で飼っていた犬によって救われたのです。  青年はわずかに目を開けました。かすんだ視線の先には、毛むくじゃらなものがありました。それが何であるかわかるまで、だいぶ時間が掛かりました。  耳を垂らしたやすきちが青年の顔を舐めました。 「やすきち……お前か」青年はうわ言のようにいいました。「大丈夫だよ、ごめんな」 「ワン」  やすきちが答えるように鳴きました。青年がかすかに微笑んだように思えました。 「お兄さん、どこにいるの? まだ寝ているのですか?」寝室のふすまが開いて、おばさんが入ってきました。「もう起きる時間ですよ」 「ウー、ワンッ!」  やすきちがおばさんをにらみ付けて吠えました。 「まぁ、やすきちくん。こんな所にいたの」  おばさんが青年が寝ている布団に近づこうとしました。 「グウウ……」  やすきちは大きなうなり声を上げました。前傾姿勢をとって、いつでもおばさんに飛び掛からんばかりの勢いでした。 「どうしちゃったの、この犬は。おお、こわい」  おばさんは青年に近づくことを止めました。 「もしかして、まだご飯をもらっていないから、やすきちくんは怒っているの? だったらお兄さん、さあ起きて下さいよ」 「すいません」  青年が荒い息をしながら、つぶやくようにしていいました。 「あらら、どうしたの?」  おばさんが遠くの方から、青年の顔を伺うように見ました。 「体がしんどくて……たぶん、風邪を引いたみたくて」 「それは大変ね。お医者を呼びましょうか?」おばさんがいいました。「それに、やすきちくんにはご飯をあげましょう」 「私は、休んでいれば大丈夫です。注射は嫌いなので、薬だけお願いします」 「はいはい、それ程なら、やすきちくんのご飯を先にしましょうか」  やすきちは『ご飯』という言葉を聞く度に、耳をぴんと立てたり伏せたりしました。  不慣れな環境に疲れたのでしょうか、青年は体調を崩してしまったのでした。  すぐさま、おばさんがドッグフードを入れたお皿を持ってやってきました。 「さあ、やすきちくん。お兄さんの邪魔をしないように、こっちの部屋で食事しましょうね」  おばさんが居間の中央にお皿を置き、やすきちを見ました。  やすきちは身を乗り出して、お皿を見つめました。二、三歩居間の方へ歩み寄りましたがすぐに思い止まって、青年のいる布団に戻っていきました。その後ろ姿はせつなくて、いつも左右に揺れている尻尾も垂れ下がったままでした。体を伏せた状態でお皿をじーっと見つめました。 “食べたいけど、ここを離れたくないし。お兄ちゃんのことは心配だけど、お腹は空いているし”やすきちは再び立ち上がって、のろのろと居間に進んでいきました。“ちょっとだけなら、ここを離れても大丈夫だよね。おばさんもいることだし、平気だよね”  やすきちはふと立ち止まって、お皿とそのそばに立っているおばさんの顔を交互に見ました。そして、青年を振り返って見ました。 「大丈夫だよ、やすきちくん」  おばさんが優しい口調でいいました。 “すぐ戻ってくるからちょっと待っててね。僕お腹空いちゃったよ”  やすきちは駆け出して居間に入っていき、勢いよくご飯を食べ始めました。 「よほどお腹が空いていたんだねぇ」おばさんが両手を腰に当てていいました。「さてと、私はいったん家に戻って、風邪薬を持ってきましょう。それと精のつくものでも作ってあげましょうか」  おばさんは早々に部屋を出て行きました。  やすきちはご飯を食べ終えると、すぐに青年の元へ戻りました。青年は寝息を立てていました。 “お兄ちゃん、早く良くなってよ”  やすきちは布団の足元で体を丸めたまま、そう願いました。  やすきちの願いが叶ったのか、次の日青年の夏風邪は治りました。  近所のおばさんが心配して、青年の具合を見にきました。布団から起き出した青年に、朝食を作ってくれることになりました。  朝食が出来るのを待っている間、青年がおじいちゃんのソファに座って外の景色を眺めていました。竹村さん家の前の路地をてくてくと歩く人達、庭の片隅に放置された荒れ果てた犬小屋、その犬小屋の屋根に降り立ったすずめたちをぼんやり眺めていました。  すると、朝食を食べ終えたやすきちが駆け寄ってきました。ぴょんとジャンプして青年のひざの上に乗り、自分の居場所であるかのように体を横にしました。  青年と目と目を合わせたやすきちは我が物顔で見ていました。青年は苦笑いしながら、やすきちの頭を優しくなでました。  やすきちは気持ちよさそうに目をつぶって、青年に体を預けました。 「僕、しあわせ……」  そういっている気がしました。                        完
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