冬子.4

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冬子.4

「ワシが富津(ふっつ)や」  と言った、その男がどこを見ているのか分からなかった。  斜視でもないのに、目が合わない。それに加えて、今この場には私と安生、ブッチとその男しかいないにも関わらず、全く別の方角からも私たちを見つめる視線を感じるのだ。  違和感たるやなかった。男は軒先に立って私たちの方を向いている。だが、人の立っていない方向からも確実に視線を感じるのである。しかし私にはそれが、目の前の富津京作の仕業であるように思えてならなかった。どう言葉を尽くしても伝えきれるとは思わないが、富津と名乗ったその男が只者でないことだけは即座に理解出来た。怖くてたまらなかった。 「何しとんじゃ、はんしゃあ(話は)聞いとるぞ、早う入れや、暑いじゃろが」  不意に男が口を開いた。  与之同様訛りの強い方言だったが、口調は意外にも軽かった。 「あ、はい!」  と安生は元気よく応じたが、私は彼女の肘を掴んで止めた。 「やめよう。帰ろう」 「何言ってるの冬子。ここまで来てやめられないよ」 「もういいよ、帰ろ」  私の真剣な訴えに、安生の顔に躊躇が浮かんだ。 「早くしろ」  突如聞こえた出所の分からぬ声に、私と安生は同時に「はい」と返事をしていた。恐る恐る振り返るも、やはりそこには誰もいなかった。  京作の家に上がるなり嫌な匂いを嗅いだ。  何の匂いなのかは複雑過ぎて分からなかったが、とにかく不快だった。おそらく湿気から来る黴と、刺激性のある生臭さ、そして何かが焼け焦げたような強い匂い、それらが混じりあってどこへも行かずに家の中を漂い、充満していた。すぐ目の前を歩く京作の背中を恐れて鼻穴を押さえたりなどはしなかったが、安生もまた私を何度も見やりながら顔をしかめていた。  家の奥に通された私と安生は、明かりの乏しい十畳程の和室で京作と向かい合って座った。空調が効いているのか、その部屋は驚くくらいに冷えていた。 「与之から聞いたが……お?」  口を開いた京作が、私の隣に座る安生に視点を定めて眉を顰めた。 「お前女か?」  安生は私を一瞥した後、 「はあ」  と頷いた。どうやら宜伊木与之は、電話で富津京作に若い男女が来たと我々を紹介したらしい。それもその筈、安生は私よりも十センチ近く背が高いばかりか、髪形も後頭部を刈り上げ、ショートボブの私よりも尚短かった。化粧っ気がない上に眼鏡をかけている為、人相もいまひとつ分かりづらい。本人も承知の上だが、東京でもよく男性と間違われていた。 「ほう、そうけ」  京作は興味なさげに頷き、ほいで……と話し始めた。「東京の○○先生からの紹介やそうやが、そこの色の白っこい女を歌手として大成させたいゆう話で間違いないか。それにワシらの力を借りたいんじゃと、そうゆう話でええんな?」  はい、と安生は力強く答え、畳に手を着いて深々と頭を下げた。 「よろしくお願いいたします」 「分かっとるじゃろうな」  ピシャ、と京作の声が鞭のようにしなった。  安生は頭を下げたままである。 「金の問題は金の問題としてあるが、それとは別に、お前らがやろうとしとることがどういう意味をもつのか、分かっててこの村へ来たんじゃろうな。おいそこの白い女、お前自分だけ無関係みとーな顔しとるがほんまに覚悟はあるんか?」 「は」  声が出なかった。何を言われているのか全く分からないからだ。 「……」  しばらく私の答えを待った後、京作の目が土下座する安生の首筋に注がれた。 「お前まさか言うとらんのけ」 「それは……その」 「あの、何がでしょう」  思わず、だった。何だか一人責めたてられている安生の背中の丸みが、猛烈に哀れに見えたのだ。だから、思わず私は身を乗り出していた。これが、いけなかった。 「私たちはただ、次に出る新曲のヒット祈願をお願いしに伺っただけです。むろん努力はします。でもそのことと、あなたが仰る覚悟という言葉には何か隔たりがあるように感じます。分かるように説明していただけませんか」  冬子、と安生が悲鳴に近い声を上げて私の手を握った。相変わらず頭を下げたままである。 「あんたもあんたよ、いつまで土下座してる気なの」 「お前、自分の歌が売れる、自分の地位を向上させるという、その意味が分かっとらんようやのう」  地を這うような京作の声に、私は自分の胃がきゅうと小さくなるのを感じた。  ―――どうしていちいちこんなに恐ろしい話し方をするんだ、この男は。  腹立たしく思うものの、生き物としてのポテンシャルの差だろうか、京作の目と声に、私の心はどうにも抗えない強さを感じて萎縮していた。 「よう考えよ。お前の曲が当たるいうことは他の誰ぞの曲が当たらんとゆうことや。お前の地位が向上するゆうことは他の誰ぞの地位が下がるゆうことやぞ。他人を自分の足で蹴り落とす覚悟を持ってここへやって来たんかと、ワシはそう聞いとるんじゃ」  あります、と安生が叫んだ。  顔を上げ、血走った眼で京作を睨んでいた。 「あります。覚悟ならあります。例えどんなことをしてでも、私は冬子を大スターにしたいんです!どんなことをしてでも!」  
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