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冬子.3
安生は、父親の知り合いから一人の男を紹介されていた。怨立村に住む力のある祈祷師で、名をギイギヨシユキというそうだ。ギイギとは宜伊木と書くそうで、ヨシユキは与之、現在の村の長を務めている人物なのだという。
乗って来た車を麓の集落に隠し、徒歩で野山を登ること数時間、村に到着した時には既に倒れそうになっていた私を、どこまでも前向きな気力に溢れた安生が手を引いて先を歩いた。まずは紹介状を手に村人と交渉し、そのまま宜伊木の家まで案内してもらった。
案内された家は大きな藁葺屋根が特徴の日本家屋で、ゲゲゲの鬼太郎に出てきそうな雰囲気だった。山と木しかない背景に完全に溶け込んでしまって、一見してどういうシルエットの家なのか分からなかったくらいだ。だがとても大きく、厳かであったということだけは断言できる。
家の奥から出て来た宜伊木与之本人は、彫りの深い顔立ちの男前で、見た目には年齢が分からなかった。想像していたよりも若い印象だったが、それでも六十代後半くらいだろうか。くすんだ菫色の着流しを着ており、整った顔立ちではあるけれど、閉鎖的な村の長だけあって、威厳と陰湿さを同時に持ち合わせたような薄気味悪い雰囲気を身にまとっていた。正直言って、お近づきにはなりたくないと思わせる印象であった。
しかもだ。玄関先で紹介状を差し出した安生と私を一瞥した宜伊木与之は、あろうことか、
「今は手ぇが離せんのじゃ」
と、あっさり言い放った。まさかとは思ったが、祈祷を断られてしまったのだ。安生は驚いて私を振り返った後、
「でも、あの」
ぐい、と両手で紹介状を突き出して頭を下げた。
「分かっとるわい、話は聞いとるで無下にはせん。ほうでもお前、今すぐワシにどうにかせえ言うんは無理な相談じゃ。先約がおっての、もうワシは今そっちにかかりっきりじゃ。村にゃあワシより古株の人間がおるけえ、そっち紹介したるわ、そいでええか。それともワシの仕事が終わるまでひたすらこの村で待ちよるか? いつになるかは分からんぞ。どないする、どっちや、今決めえ」
突然選択肢を提示され、安生は頭を下げたまま必死に考えた。そして、
「では、そのもう一人のお方でお願いします」
と答えた。
「そうか、ほな今すぐ連絡しちゃるけえ、そこでそのまま待っちょれ」
宜伊木が奥へと引っ込むと、安生は全身で溜息を吐き出した。
「何とかなりそう」
振り返って私に言う安生の顔面は真っ青で、とても何とかなったという顔ではなかった。どうしてそこまで、とは言えない。何度も安生の思いの丈を聞いて来たからだ。有難い話であるけれど、私自身はどちらかと言えば、早くもこの村から出て行きたい衝動に駆られていた。
その後程なくして、
「行くで」
と外から声をかけられ家を出た。
私たちを別の家まで案内してくれた背の低い男、あとで知ったことだが仲間内からブッチと呼ばれるこの若い男が、宜伊木与之の言う古株とやらのいる家へと連れて行ってくれた。道中会話はなかったが、ブッチは私よりも背が低いというのに獣じみた力強さを感じさせる風体であった。着ている衣服は雑巾みたいに汚れた半袖シャツと腰蓑で、いかにも山の男、という雰囲気を醸し出していた。ブッチからは、野生動物のような匂いがした。
一時間ほどかけて到着した家は、宜伊木与之の家よりもさらに山の奥へと進んだ土地にあって、周辺は木々を伐採して整備された野原だった。その場所からは大きく空が覗けて見え、開放的で、息がしやすくて助かった。
その家は、全体的に黒ずんでいた。それがもともとの木が持っている性質なのか、上から色付けされているのかまでは知り得ないが、屋根も、壁も、柱も何もかもが黒かった。嫌な黒さではなかったが、宜伊木与之の家同様、やはり理由の分からない怖さが漂っていた。
ブッチが玄関を開けて中に首を突っ込んで、何かぼそぼそと声をかけてしばらく、やがて袖まくりしたYシャツ姿の男が出て来た。私と安生はただぼーっと庭先に立って待っていたのだが、男が出て来るなり背筋に悪寒が走った。それは私だけに限ったことではなく、安生も同様の寒気を感じていたそうだ。
とりたてて変わった特徴のない、普通の男に見えた。顔面に関して言えば宜伊木与之の方が大分と男前である。だが、黒い家から現れたその男、富津京作いう名の人物は、その存在感という得体の知れなさが尋常ではなかった。
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