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冬子.5
言い返したい気持ちもあったが、安生の熱意の前に私はため息を飲み込んだ。本来なら見ず知らずの人間に誹りを受けるいわれなどないものを、神頼みを恒例行事として漫然と受け入れていた自分の怠惰さを見透かされたようにも感じ、すぐには言葉が口を突いて出てくれなかった。
他人を蹴落としたいなどと思っているわけではない、だが、富津京作の言葉には妙な説得力もあって、
「そんなつもりなどない」
と抗った所で、
「じゃあどういうつもりだ」
と問われてしまえば答えようがないのだ。
私自身は、
「スターになりたいだけだ」
などという大それた目標を大声で叫んだりなど出来ない。だから、安生のどこまでも折れない意志には感動さえ覚えるのだ。私にはない、無鉄砲で頑なな彼女の強さに今更ながら心が震えた。
「何をしてでも、の。よっしゃあ」
京作が膝を打った。「そこまで言い張るなら引き受けよ」
本当ですか、と安生が顔を紅潮させるのを見もせず、
「ほな、段取りするさけ、お前らも事が済むまでこの山に逗留してもらわなならんぞ、ええな」
と言う。
――― 逗留?
初耳だった。
怨立師がどんな技を使う祈祷師なのか知らないが、ヒット祈願や歌手としての成功をお祈りする儀式など一、二時間もあれば終わると思っていた。
「あの、どれくらいですか」
と私が問うと、
「ああ?」
京作が目を見開いた。「なんじゃお前、今ワシが覚悟の話をしたん聞いてなかったんか」
「いや、聞いてはいましたが」
「ワシがええと言うまでじゃ」
「だ……」
だからそれがいつだと聞いているのだ。
しかし、安生が私の手を握って何度も首を横に振った。ここで京作の機嫌を損ねて仕事を引き受けてもらえなかった場合、私たちが奥深い山の集落にまで足を運んだ意味がなくなる。そしてそれ以上に、安生は富津京作という男の、いや、この村の怨立師の力を頭から信じ切っている様子だった。
「おい」
と京作が声を上げた。
すると唐突に部屋の襖が開き、廊下から男が一人、のそりと入って来た。ずっと廊下で待機していたのだろうか。その男は私や安生には一瞥もくれず、京作に向かって小さく頭を垂れた。
「連れていけ」
「……す」
小さく返事をしたその男は、天井の低い部屋の効果もあってか、かなり上背があるように見えた。京作の指示を受けて私たちを見やったその男の目は、一重瞼で非常に大きく、形の良い切れ長だった。色白で、鼻筋がすっと通り、ややぽってりとした大きな唇が印象的な美男子である。ただ、私たちを見下ろす彼の目には、卑しい物を見る時の寒々とした冷徹さがあった。
「息子の新兵衛や。どうよぉ、男前じゃろぉ、んー?」
私は単にその男の視線が怖かっただけだが、どうやら京作の目にはそれが息子に見とれる女の構図として映ったらしい。上機嫌で顎を摩る仕草はただの子煩悩な父親然としており、家の前で初めて対峙した時のような尋常ならざる恐怖感をやや薄れさせてくれた。
「この村の連中とは毛色が違う思わんけ? 街の出や、東京よォ。サカモトだかサカマキだかいうどえらいべっぴんに産ませた、ワシの自慢の一粒種じゃぁ」
京作は意気揚々とそう語るのだが、
「……」
私はどう返事してよいか分からず視線を落とした。街の出・東京、という言葉が村の外で生まれたことを意味しているなら、何故京作がそれをさも自慢げに語るのかが分からない。山奥に住んでいるがゆえのコンプレックス……そのようなものは京作から微塵にも感じられなかった。そもそも子を成した相手の名前さえうろ覚えなのは、それが正式な段取りを経ていない証拠ではないのか。そんなものを赤の他人に吹聴するなんて、一体どういう思考回路なのだろう?
この時、
「……」
言葉を発さず、顎をしゃくっだたけで私たちについて来ることを促す息子の目を見て、ひょっとして……という思いが脳裏をよぎった。
――― 家の前で感じた得体の知れない視線は、このシンベエという男がどこかから私たちを監視していたからかもしれない。
逗留、と言われても何の備えも持参していなかった。
荷物は簡単なメイク道具とハンカチ、ティッシュ、財布くらいのものである。道なき道を行く険しい山の中だとは想像もしておらず、着替えの衣類も一切持たずに来てしまった。どうしたらいいのかと安生と相談しもって歩いていると、
「うるさい」
と前を行く新兵衛が口を開いた。
思いの外高い声質で、ともすると少年のようであった。やはり背が高く、肩幅もあるせいで、細く締まった体躯にジャストサイズの黒い上着が学生の詰襟を思わせることも若く見せる要因だった。だが、父親の京作同様、この新兵衛にも言葉にはしがたい風格のようなものが漂っていた。
「あの」
と安生が声をかけた。
私たちは新兵衛に案内されて、逗留先となる家に向かっている、筈だった。
「私たち、初めてこちらの村に来させていただいたんですけど、どこかに旅館やホテルのような施設があったりするんですか?」
ビタ、と新兵衛が足を止めて、左を向いた。
綺麗な横顔が見えた。
「あると思うか?」
「え」
新兵衛は標準語で喋った。だが、私たちが息を呑んだのはそこではなかった。
「お前ら何か勘違いしてないか。この村に来た以上、そう簡単にゃあ帰れんぞ」
「え、それはあの、どういう意味で仰ってます?」
恐る恐る安生が尋ねた。京作の行う儀式には相当な時間を要する、という意味だろうか。
「遊びでここに来たのか?」
新兵衛に問われ、
「違います」
と安生は即答した。
「なら黙ってついて来い、どうせ……どこにも行けねえけどな」
最後の方はぼそりと呟き、同時に新兵衛は再び歩き始めた。
――― とてつもなく嫌な予感がする。
私と安生は手を取り合い、はぐれないように新兵衛の後を追った。時間の感覚がない。すでに、辺りは暗くなり始めていたた。
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