冬子.6

1/1
前へ
/61ページ
次へ

冬子.6

「シンベ」  呼ぶ声が聞こえて、前を歩く新兵衛が足を止めた。  横手の林から……といっても辺り一面生い茂る木々しかないのだが、ひょういと私たちの前方に躍り出て来る影があった。 「ブッチ」  と新兵衛が呼んだ。 「決まったか」  とブッチが私たちを見やりながら尋ねた。新兵衛と並んで立つ姿はまさに美女と野獣のそれに近かったが、観察する限り二人の関係性にはそこまで極端な差はなさそうで、気安い間柄に見えた。私たちの前では一切表情を崩さなかった新兵衛の片頬にも、今は薄い笑みが浮かんでいる。 「あっちは?」  と新兵衛が聞いた。 「始まったわ」  とブッチが答えた。「今ダミが張り着いちょる」 「そうか、また動きがあったら教えてくれ」 「おう。ほいでも」  ブッチの目がギラリと光った。「こいつらどうしよるん」 「様子見だな」 「そうけ。ほいでもヒッコミにめっかったら一発ドンじゃろ」  何やら意味ありげな言い回しをするブッチの言葉に、新兵衛が私と安生を振り返り見た。あまり綺麗とは言い難い笑みが張り付いたままの顔で。 「俺の知ったことか」 「にゃはは」  ブッチは気持ちの悪い笑い声をあげ、「そん時はワシも御相伴に預かろうかのー」 「おい」  と、新兵衛が唐突にブッチの胸倉を掴んだ。「お前もヒッコミに行くか?」 「……冗談じゃろうがシンベ。何をマジになっとんじゃあ」  ブッチの大きな手が、新兵衛の右拳を易々とくるんだ。二人はしばし睨み合った後、 「だよなあ」  新兵衛がブッチの肩をぽんぽんと叩いて離れた。  ブッチは一瞬ホッとした表情を浮かべたが、私と安生の側を通り過ぎる間際に鬼のような形相で睨みつけて来た。私はぞっとして目を逸らし、安生は「ひ」と小さく悲鳴をあげた。  新兵衛が案内したのは村の入り口に程近いボロの平屋だった。今は人が住んでいない家らしく、適当に片付けて寝泊りしろ、と宣って来た。  ありえない、と私は思った。  言ってしまえば私と安生は、富津京作にお金を支払う側である。田舎の山奥で高級ホテルのような待遇は望むべくもないと思うが、人が住んでいないあばら屋に押し込みどこへも行くなというのは酷過ぎる話ではないか。私たちは囚人じゃないのだ。自由と人権を約束された人間である。 「ああ」  口を開きかけた私の前で、新兵衛が長い人さし指を立てて振り返った。 「この家から出ない方がいいぞ。この家にはお前らには分からない術が施してある。親父がかけた強力な術だ。この家にいる間は誰も入って来ないが、ここからひとたび出たらそこはもうだ。何が起きるか分からねえぞ」 「何か、って何ですか」 「熊が出る、とかですか?」  安生が問うと、新兵衛はクイっと真横を向いて、 「ああ、それに近いな」  と答えて再び私を見た。  この山には似つかわしくない、都会的で洗練された顔と表情だった。着ている衣服もブッチのそれとはまるで違うし、そもそも新兵衛からは嫌な匂いがまるでしない。横柄な態度と得体のしれない雰囲気は好きになれないが、下手をすると東京の芸能事務所に所属していてもおかしくはない程の魅力を、この新兵衛からは感じるのだ。  その夜、私は安生にこの村が一体何なのかを尋ねた。  ここまで来ると、単なる神頼みの延長線上だとは考えられなくなっていた。怨立師が何をするのかも、富津京作が何をするのかも分からない。いくらスターになる為とは言え、理解出来ないことが多すぎだった。だが、 「冬子は、何も心配しなくていいの。私が全部上手くやるから」  安生はそう言って説明を拒んだ。そして私がさらに詰め寄ると、あろうことか私の両肩を掴んでいきなり顔をぶつけてきた。私は驚いて身を固くし、安生に唇を奪われた。目を見開くこと数秒、 「ごめん」  と言って安生は私から離れた。「ちょっと、家の中片付けるね。やだな、寝る所くらい綺麗にしなきゃ」  ちょっと休んでて、と言われ、私は何も考えられなくなって家の裏手から外へ出た。安生も動揺していたのか、出るなと言われた家を出たにも関わらず、私を引き留めることをしなかった。  ただ、遠くへ行こうとは思わなかった。安生の行為に心底驚きはしたが、我を失ったわけでもなかった。何なら却って、 「そういうことか」  と納得する部分もあった。何故安生があれ程私をスターに押し上げたかったのか、その熱意がどこからくるものなのか、分かった気がした。  カサ。  爪先が何かを蹴った。  暗がりでよく見えず、しゃがんで拾い上げると、土汚れなどがまるでない、真新しい煙草の箱だった。側には赤いライターまで落ちている。私はそれらを手に持ち、まじまじと見つめた。  新兵衛が落としたのか、と思った。  だがあの男からは煙草の匂いなどしなかった。  私は中から一本取り出して口に咥えた。  安生に奪われた唇の感触を、初めての煙草で帳消しにしてやれ、と思った。  だが、何度ライターの火を付けても煙草の先端は燃えなかった。  その内段々フィルターの味が口内に侵入してきて、 「うー」  となった。変な味である。 「まっず」  すう、と思わず息を吸い込んだ所で、ぽう、と煙草の先端が赤く光った。なるほど、と思い少し強めに空気を吸った途端、思い切り煙を飲み込んでしまった。 「ケホ、ケホホ」  ――― 誰。  突然聞こえて来た男の声に、私はひと際激しくむせ返った。
/61ページ

最初のコメントを投稿しよう!

60人が本棚に入れています
本棚に追加