リイチ.2

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リイチ.2

 母から言われるまでは行きたいとも思わなかったその村について、道中にてそれとなく確認した所、やはり私は納得のいかない点をいくつか見つけて何度も首を捻る結果となった。  村へは私がハンドルを握る自家用車で向かったのだが、知らない土地へぐんぐん分け入る不安と、母から聞かされる訳の分からない話の内容に、段々と心細さを感じるようになっていった。  季節を跨ぐことはないかもしれない、とまで言われた母の言である。その形の良い双眸で紅葉を愛でる事が叶わぬやもしれぬ母の思考は、もう既に私の知らない世界にぶっ飛んでいったようにも感じられ、どこまで彼女の話を信じて良いのかという葛藤もあったし、また、よくよく考えれば母は生家のある村に骨を埋めると断言したわけだから、時期はいつになるのか分からぬが、その時が来れば私は一人で東京へ戻ることになるのである。この事にはたと気付いた瞬間の私の悲しみと渦巻く恐怖というものは、まさしくフロントガラスに映る彼方の空の積乱雲のように、純白を汚す灰色へと私の心象を塗り替えて変えていったことは極当たり前のことで、これには是非とも同情していただきたいところである。  まず、いくつかの県を走破して辿り着いた遠方の彼の地で、私はいきなり途方にくれることとなった。、と現地に赴いてから知らされたのである。  地名は伏せるが、とある集落へ入った私に、 「そこで車を停めて」  と母が指示した。  ようやく目的地に到着したものと早合点し、前方の家を見据えるも、風に吹かれて外れた雨戸がガタガタと音を立てているばかりで人の気配などどこにもなかった。そればかりか、思い返せば通り過ぎて来た家々はそのどれもが似たり寄ったりだった。中には縁側の戸板が庭に落ちて屋内が丸見えになっている家もあり、夏場だから、夕暮れだから、といった田舎特有の凉の取り方が理由であるとは考え難かった。  集落には、およそ住民と呼べる人間がいないのだ。つまり、廃村である。 「何だよここ」  言うと、 「ここに車を停めて、さらに山の中に入るの」  事も無げに母はそう答えた。 「山」  私は声を裏返して叫び、慌てて車を下りて視線を上げた。  どこにそんな元気を隠し持っていたのか、母は荷物を小さくまとめたバッグをひょいと持ち上げて車を下り、朽ちた家屋の隙間をすたすたと歩き始めた。私は慌てて後を追い、 「車で行けないのか」  と何度も振り返りつつ聞いた。 「行けない。車はあそこに放置しておいて大丈夫。誰も来ない。でも、鍵だけはかけておいて」  私は言われた通り車の鍵をかけに戻り、それから走って母の背中を追いかけた。  その山には道がなかった。舗装されていない山道だとか、獣道だとかいう話ではない。道そのものが無いのだ。そもそも山の麓の集落にさえ人が住んでいないのだ。さらに先へ進んだとしても、そこに母の生まれ故郷が存在するなどという話は到底信じられるものではなかった。だが、母は衣服を木立の枝葉に引っ掛けながら強引に山へと押し入った。私は溜息をつきながらもそれに従った。  私という人間の表層で、恐れと不安が入り混じった得も言われぬ感情が蜷局を巻いていた。だが内心では、これも母との思い出になるであろう、と喜んでいる部分もあったのだ。もし辿り着けるなら、その村は私自身のルーツでもあり、長年謎に包まれて来た母の一面を知る結果にもつながるのだ。暗がりの中にあるその小さな楽しみを、命の灯がポウと照らしてくれている。私はそこに向かって歩いているのだ、と自分に言い聞かせた。  母はまるで昨日も一昨日も来たように、暗くなり始めた山肌を這うように登っていった。私は母の病身を気遣い何とか前を歩こうと試みたが、何分道もない上に方向も分からない。 「慣れてくればこの程度の明るさがあれば山の形で道は分かる」  と、母はいかにも山猿のようなことを言う。  確かに晴れて明るい夜ではあったが、身の丈の数倍はある木々に頭上を覆われた山中である。運よく懐中電灯を手にしていたが、車に積みっぱなしにしていた非常時用の古物で、いつまで電池が持つのか分からぬ焦燥とも戦わねばならなかった。  湿気と、藪蚊と、枝の切っ先が肌を掠める痛みに神経を削られながら母の後をついて歩きがら、この時私は車内で聞いた村の話を思い返していた。  
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