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リイチ.3
村は日本地図にも載っていないとう。
名を、オンタテムラ、というそうだ。
響きから想像される字面は「恩盾村」か「恩立村」、あるいは「音立村」ではないかと想像したが、聞けば「怨立村」だという。
「えらく物騒な字を使っているね」
言うと、
「そういう村だから」
と母は自嘲気味に答えた。
そういう、とはどういう意味であるのかを問うと、母は赤い唇をそっと噛んで黙り込んだ。潤んだような瞳は私の隣で前方を見つめていたが、おそらく母の目には、フロントガラス越しの風景など映ってはいなかっただろう。
「母さんはどうして村を出たの」
問うも、母は答えなかった。
「子どもの頃、ずっと、村のことや実家の話をしてくれなかったね。何故今になって帰ろうと思ったの」
「それは」
余命幾ばくもないからだ、とは母も答え難い様子だった。私もその事に考えが至らないわけではもちろんなかったが、何となく、その事とは別の理由が今回の帰省に関わっているような直感が働いて、敢えてそのような問い掛けを口にしてみたのだ。
「当時家がどういう仕事で生活してたのか、母さんも思い出せないのだろ?」
「……何で今それを聞くの?」
「今でも村に人がいるとは限らないんじゃないかと思ってね。山奥なんだろ。昔はある程度金銭を手に出来る仕事があったのかもしれないけど、今じゃもうそれが通用しないことだってあるよね。例えば農業にしたって、林業にしたって、長く続けるのはただそれだけでも難しいだろうし」
「いないことはないと思う」
「……誰かと連絡を取り合ってるの?」
「ううん」
「じゃあ、村そのものがないかもしれないじゃないか、麓の廃村みたいに」
「あるわよ」
「どうして分かる?」
「分からない。そう思うだけ」
「無駄骨かもしれないよ?」
「それでも」
「……」
「行くの」
まるで話にならなかった。私にはその集落が幻の桃源郷か何かに思えた。母が生まれ育ったという世界は何一つ具体的な実像を伴わず、想像を巡らせることすら困難な程だった。もしやもすると、死を間近に控えた母の妄想ということもあり得るのじゃないか……?
「会いたい人がいてね」
と、しばらく経ってから母がそう言った。
家族かと尋ねると、母は無言のまま頷いた。
「村で死にたいって、本気?」
「ああ、うん。本気」
「どうして東京じゃダメなんだ。何かと都合がいいだろ、都会の方が」
「ふふ、母さんのことは何も気にしなくていいよ。お前は、すぐに東京に帰んな」
「馬鹿なこと言ってらぁ」
「そうかい?」
「そうさ」
涼し気な微笑みを浮かべる母の横顔に、私は不覚にも込み上げるものを感じて慌てた。考えもしなかったのだ。すぐ目の前に死期が迫る母を一人残し、自分だけ東京に戻るなど。
人が変わったように ――― いや本来の溌剌とした姿を取り戻したように、駆けるよな勢いで山中を進んでいく母の背中に追い縋るうち、おそらく二時間以上は彷徨ったと思うが、やがてどうにかこうにか遠くの方に人工的な明るみを目の当たりにすることが出来た。
この時私が第一に思ったことは、
「ああ、こんな辺鄙な山奥にも電気は通っているんだな」
という至極どうでもいい内容であった。
その日のうちに村へと辿りついた私たち親子は、母曰く、
「お前の言うとおり、もうすでに知り合いは皆、村を出ていったあとかもしれないけどね」
という、いかんともし難い寄る辺なさに不安を募らせていた。
日が暮れてから、やや時間が経過してしまっている。例え知り合いがいた所で長年の不義理を考慮すれば、我々を快く迎え入れてくれるとは限らない。それでも私たちには引き返す選択肢などなく、どこまでが森でどこからが村なのかという境目も曖昧なその集落にひっそりと身を紛れ込ませた。
まずは、母が生まれ育ったという家を目指すことにした。辺り一帯のほぼすべてを木々で覆われた土地だというのに、母は、道の勾配や枝葉の隙間から垣間見える民家の屋根の向きだけで、進むべき方角を見極めることが出来た。私は半信半疑のまま付き従う他なく、輪郭さえ闇に溶けた民家とジャングルのような森に圧倒されて怯えつつ足音を殺した。
所が、我々は集落に到着して数分、思いがけぬ人に出会った。
黒色のゴミ袋を両手に持って、家の玄関から出て来てそのまま裏手に回ろうとしていた人物を見止めた母が、ほんの僅かな合間足を揃えた次の瞬間、突然無言で走り出したのだ。私は驚いてその後に続き、
「かあさ」
真っ暗な物陰に消えゆこうとする母の背中に手を伸ばした。
「ああ?」
足音に気付いて声を上げたその人物は女で、酒焼けした低い声の年増であった。
「タ、タミちゃん?」
と母が問うと、女は息を呑んでもの影から出て来た。
「……コトちゃんか?」
と女は言う。
私の母の名前は、ヤソ コトコといった。
漢字では、八十琴子と書く。
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