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リイチ.5
タミエの家はお世辞にも大きいだとか綺麗だとか、そういった裕福さを感じさせる住居ではなかったけれど、私自身その理由を今一つ把握出来ないながらも、とても懐かしい感じがしたのを覚えている。それはいかにも田舎に接点のない東京者が、原風景へ思いを寄せるといった軽薄な憧れにも似ている気がした。だから、私は一切他人の住居に対する感想など口にせず、ただ黙ってそれらを観察するに留めた。
日の暮れ切った山の中だ。家の裏手で音を立てて振動する発電機が灯す家の明かりというのも、そもそもそれ程煌々と周囲を照らすものではないらしい。はっきり言えば室内は暗く、そしてじめじめと湿っていた。ただし、夕食の良い匂いがしたし、外にいるよりかは幾分涼しかった。
「ご無沙汰してます、タミちゃん。不義理して、ごめんなさいね」
母が言うと、タミエは台所に立って我々に背を向けまま、
「ああ」
と小さく返事した。
「今……お一人?」
遠慮気味に母が尋ねると、ややあってから、
「もう十年近う前んなる」
とタミエは答えた。「この奥で長雨による崩落があってな。片付けに回されよる最中に二次被害があって、何人かの仲間と一緒に谷底へ落ちて埋もれた」
「引き上げは?」
「大分と経ってからや。体が二つになっとったわ」
「……亡くなられたの」
「ああ」
「それは、災難だったね」
「……」
「私、ここを出てからもずっとタミちゃんの幸せを祈っていたのよ。東京で」
「そうけえ。何が幸せかは人それぞれやし、他人にはそうそう分からんじゃろうけどのぉ」
含みのある言い方だったが、あからさまな嫌味であるとは感じなかった。タミエはこの時私たちに背を向けたままお茶を入れてくれていたわけで、実際裏でどんな表情を浮かべていたかは分からないけれど。
「変わらんなぁ、コトちゃんは」
「……ふ」
と、今度は母が鼻で笑う番だった。タミエにも悪気はなかろうが、母は大病を患いまるで様相が変わってしまった。健康的だった肌が変色し、食も細くなり、今や骨と皮だけになっていた。変わらないわけがない。母が鼻で笑いたくなる気持ちも、私にはよく分かった。
「東京は、どうなん」
お盆に冷たい麦茶を入れてタミエが戻って来た。私たちは畳敷きの六畳間で、物が散乱した食卓の側に座ってそれを受け取った。
「お前コトちゃんの子やてな。名前は何言うた?」
「理一といいます」
「年はなんぼよ」
「二十六です」
「ほうか。ほお、コトちゃんの子がそない大きいなるんか、はあ、年は取りとうないな」
「でも、タミエさん、うちの母と同い年なんですよね。だったらまだまだお若いじゃないですか」
「だったらて何じゃ。お前人褒める前にまず自分の母親褒めとるやないけ」
「え」
そこで母がふっと笑い、タミエは拳にハアと息を吹きかけて私の頭をゲンコツで叩く真似をした。期せずして場が和んだ。だが、
「死ぬ前に、タミちゃんに会えて良かった」
母がそう言って泣き出すと、タミエはぐっと堪えるような目で母を見据えた後で、今度は私に視線を移した。
「悪いことは言わん、お前は早いとこ村を出え。他のモンには会わんでええ、挨拶もいらん、朝が来る前にとっととここを出るんじゃ」
「あ、朝が来る前にって。すみませんが、意味が分かりません。どうして先程から私たちを追い出したがるんですか。私たちがここにいちゃ、何がそんなにまずいんでしょうか」
「私たちやない、お前や、ワテはお前のこと言うとるんじゃ」
「わ、私だけですか? いやでもそれにしたって、どうして私だけが」
理一、と名を呼んで母が私を叱った。だが、その叱られる理由も分からなかった。視線を外そうともしない私にタミエは溜息をついて、やがておもむろにこう切り出した。
「死ぬぞ」
私は一瞬何を言われたのか分からず、無意味に麦茶を一気飲みした。言葉の意味はもちろん分かった。だが、その死というものがどういう形をしているのかが分からなかった。病気なのか、タミエの夫が命を落としたような事故なのか、あるいはもっと違った形の、別の何かなのか……。
「コトちゃんよ」
タミエは続けた。「もう一度はっきり言うといたる。この村は、お前さんがいた頃と何も変わっとりゃあせん。たった今も若干だが人が増えちょる。この意味、お前さんなら分かるじゃろう?」
分かるはずだと迫られた母は、俯いたまま肩を震わせていた。
「長い年月が経ったけえ、お前さんも村の変化を期待して帰って来たんじゃろう。ジョウゲンさんが死んで、村の風習も時間とともに変化してやがては消え去るもんじゃろうと、確かにそう期待する時代があったのは間違いない。けど、ヨシユキさんがそれを許さんかったんじゃ」
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