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冬子.1
デビュー曲である「驟雪慕情」が全く売れなかった。数字的に言えば全くでもないが、周囲の期待値が高かった分、聞こえてくる落胆の度合いだけで自殺を考えても許される程の大不発だった。ただ今にして思えば、それは容易に予測できる結果でしかなかったのだが。
まず驟雪が読めない。しゅうせつ、というらしいが聞いた所で意味が分からない。急に降ったり止んだりするにわか雪を表すようだが、説明されてもまだ情景を思い描くのに苦労した。
マネージャーの話では、名のあるベテランの作詞家さんがパーティー会場で私を見かけ、その場のノリで一曲披露した歌声をいたく気に入ってくださった……という。その作詞家さんは大病をされて念願の復帰が叶ったばかりで、年も年だから作品を世に出せるのもこれが最後だろうと自分で言いふらしていたそうだ。その最後の作品とやらに歌手として抜擢されたのが、本来デビューする予定など全くあるはずもないこの私だった。
もともと私は作曲家として今の事務所に入り、すでに在籍している歌手たちに曲を書いて提供することでお給料をもらっていた。先述のパーティーというのも、名前は失念したが、中堅歌手のデビュー何周年記念かで開催された事務所内祝賀パーティーだった。それ以外で私が煌びやかな場所に出席する理由はないし、例え断り切れないその場の圧力を感じたのだとしても、私が人前で歌を歌う場など普通に考えて他にある筈が無かった。
人生何が起きるか分からない。だから、そのお偉い先生が私を見染めて詩を書いてくださったことも、私が作った曲を自分で歌う羽目になったことも、
「まあ、そういうこともあるのかな」
として素直に受け入れた。自慢ではないが、私は大抵の現実ならばそれもやむなしと受け入れることが出来る性質の持ち主だ。ただ、売れるかどうかは賭けだった。自信などどこにもなかった。
曲はいいものが書けたと思う。明るすぎず、暗すぎず、速すぎず、遅すぎず、そういう曲調とテンポで人々の耳に残る曲を作るのが一番難しい。そこは無理を言って時間をかけ、納得するまで書き直すことで難題を攻略した。
問題は、歌唱力である。私は自分の歌を上手だと思ったことがないし、思っていたなら、曲が書けるのだから、シンガーソングライターとしてのデビューを志していただろう。
作詞家の先生を始め、搔き集めてこられた優秀な大御所スタッフたちとで何度もレコーディングし直した。先生がイメージした「驟雪慕情」の世界観を追求し、皆で共有し、これだ、と思えるところまで作品の魅力を昇華させた。
……筈だった。だが、売れなかったのだ。これはもう誰の責任でもあるまい。むろん歌い手である私の才能のなさが一番の原因であろうと落ち込んだが、制作チームに生まれた連帯感が私を優しく包み込んだ。私は誰からも責められなかったし、作詞家の先生などは体を震わせて私を褒めちぎり、
「時代が君に追い付いていないだけだよ」
と口泡を飛ばして泣いて下さった。私は申し訳なさで余計と肩身を狭くしていたのだが、ここからさらに事態をややこしくさせる出来事が起きた。
この「驟雪慕情」の企画立ち上げに際し、突然、私のスケジュールを管理してくれるマネージャーがついた。女マネージャーで、名を安生といった。この安生は私よりも二つ年上の二十五歳。大学を中退して今の事務所に拾われた私のことを、
「最初っから輝くべき存在だと思っていたの、ひと目見た時から」
と、かなりの熱視線で補助役を買って出てくれた。
この安生が、鳴かず飛ばすだった「驟雪慕情」を勝手にアレンジした。
「何か。曲も歌詞ももちろん良いんだけど、どこか昭和歌謡というか、演歌っぽいタイトルだと思ったから。曲名を英語に変えて、演奏も打ち込みでBPMも少しだけ速くして、冬子の歌はそのままで編曲し直したの」
さらりととんでもないことをやってのけたのだ。もちろん作詞家の先生が快く受け入れるはずもない。だから安生は、アレンジしたその曲をレコード会社から正式に発売することを目標にしてはいなかった。
「インターネットで配信するの。素人が勝手にいじって勝手に作っちゃいましたーっていう風にして、冬子の魅力を皆に届けるの」
私は、賛成も反対もしなかった。「snow shower」と改題されたその曲は、私が頭を悩ませて作った曲ではなかったし、作詞家の先生が最後のつもりで書き上げた、日本語がもつ古き良き響きと感性も失われていた。だが皮肉なことに、「snow shower」は瞬く間に世間に広まった。
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