冬子.2

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冬子.2

 安生の手掛けた「snow shower」はいかにも若者が好みそうな、軽快で都会的なアレンジが施され、確かにいい曲に仕上がっていた。  冬子、という私の名前から作詞家の先生が想像力を広げて書いてくださったのが「驟雪慕情」だっただけに、私個人の人間像という狭い世界観よりも、普遍的な魅力を持った「snow shower」が世間にうけたことは当然と言えば当然であった。だがもちろん、「驟雪慕情」を作った制作チームは皆複雑な心境だったし、作詞家の先生にこの話を持って行くことは誰もしなかった。「snow shower」が流行り出した後も、原曲である「驟雪慕情」の売り上げは伸びなかったのだ。  だが、事務所が黙っていなかった。 「どうやら冬子が歌えるらしい」  そういう認識が、安生の思惑通りに浸透していったのだ。しかも驚くべきことに、たった一度だけ非公式な形で世に放たれた素人の海賊曲によって、である。安生の肩書はあくまでもマネージャー業であり、その才能の有無はどうあれ音楽家としては素人だ。まぐれ当たりの一発屋で終わる可能性だって高い。それなのに、事務所は安生と私に次回作の企画を持ち掛けて来たのである。 「やったね冬子」  安生は喜んだ。いや、そんなひと言では到底表現できない程の熱量で私を抱きしめ、抱きかかえ、振り回して歓喜した。 「私は絶対に冬子を大スターにする!」  安生はそんな大それた目標を打ち立て、人目も憚らず何度も口にするようになっていった。  だから……と言われても、私は自分が置かれている状況を理解することが出来なかった。 「オンタテムラ」  という集落の名前以外、都道府県でいうどこの地域に属しているかも分からない、奥深い山の中に連れてこられたのだ。何でも、安生の父親が政治家と親しい関係にあり、私を大スターにするという娘の夢を叶えるべくその父親が協力してくれているのだという。つまり、安生の父親が親しくしている政治家から、この山へ行け、と助言されたらしいのだ。 「あの山へ行けば、何でも願いが叶うから」  そう太鼓判を押されたのだという。  私は初めてこの話を聞いた時、神頼み的ないつもの恒例行事だと勘違いした。大願成就をどこぞの神様に祈りに行くのだろう、そんな風にだ。意外と世間には知られていないと思うが、私のいる音楽業界と神頼みは昔から切っても切れない間柄にある。効果があるのかと言えば断言は難しいが、新曲の企画が持ち上がった時などは、どれほど業務で手一杯の時でも社長から平社員まで全員でお参りに行く。ヒット祈願をしないなら初めから曲を出すな、と言われているくらいだ。だから、私も安生からこの山の話を聞いた時、ご利益のある神様の居場所を新たに仕入れて来たんだな、程度に考えていた。所が安生は、 「怨立師という霊験あらたかな人たちがいるらしくてね」  と、まるで予想だにしなかった話を始めたのである。  私は、安生が一体どういうつもりでそんな話をしているのか理解出来なかった。神頼みは、相手が目に見えない大いなる力の持ち主であることに意味があるのだ。仮に、怨立師なる職業の人々が本当にいて、安生のいうように力のある存在なのだとしても、もしそれで私の次回作がヒットしようものならその手柄は彼らが全て掻っ攫っていくことになる。そこには作曲家としての私の誇りも、慣れない歌い手としての努力も何ひとつ介在しない、いや、存在している筈の人間の努力が全てなかったことにされてしまうではないか。 「それでもよ」  と安生は言った。「一曲二曲なら皆の頑張りでそこそこ売れると思う。でもそれは『snow shower』の記憶が人々の中に残っている間だけ。スターになるというのはそんなに簡単はことじゃない。十年二十年かかるかもしれない。ううん、どれだけ努力したって、冬子の魅力に気付いてもらえないかもしれない。私はそれが我慢できない。私は絶対に冬子を大スターにするのよ。例えどんなことをしてでもね」  私は自分自身がスターになりたいとは思わないし、なれるとも思っていない。だが安生の熱意にほだされ、出来るだけのことはしてみるかという気持ちになっていた。  こうしてまた、私は目の前の現実を受け入れたわけだ。だがそれでも、じめじめとした山奥に分け入り、気味の悪い廃村のような集落を歩くことになったこの現実だけはいかんともしがたく、いまだ受け入れることが出来ないでいた。
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