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リイチ.1
「大学では何を学んで来られたのですか?」
あれはいつだったか。顔も名前も思い出せない女からの何気ない問いかけに答えうる、適切な言葉を導き出せなかった過去を今でも恥だと感じている、そんな、己の個性さえ明確に表現できないこの私が、なぜあのような鄙びた村を訪れることになったのかと顧みれば、ひとえに、母の申し出を受け入れた結果であるとしか説明できない。
母は私を生んで間もなく病で父を亡くし、女手一つで私を育て上げた。明るい性格の持ち主で、息子の私が言うのも憚られるが、実に見目麗しい女性であった。気品に加えて聡明さまで持ち合わせているものだから、若い頃はさぞかし男たちの目を引いたであろうことは想像に難くない。
ただし、私自身は父の顔を覚えていない為、どういう経緯で母が父の隣に生涯の居場所を設けたのか、果たして私の父が母の器量に見合うだけの人物だったのか、といった詳しい事情は何一つ分からない。
とにかく気立てがよく、努力家で、勤勉で、弱音を少しも吐かない母だったが、今年の梅雨が明ける頃には見る影もなく痩せ細り、持ち前の快活さの一切を失ってしまった。春の終わりに進行性のすい臓がんが発見され、食も細くなって今では治療自体をやめてしまっている。日がな一日床の間の掛け軸に向かってぶつぶつと何事かを呟くだけの時間を過ごしていた、そんなある日、母が、不意に目を輝かせて私にこう言うのだ。
「生まれ故郷に帰りたい」
「やり残したことがあるの」
「私はあの村で死ぬわ」
「このまま病に倒れ伏せることだけはごめんよ」
そこまで言われてしまっては、一人息子である私も重い腰を上げぬわけにいかなかった。医者からも、残された時間を有意義に過ごせるよう努力しなさいと釘を刺されている。もはや生き永らえる方法はないと告げられたようなもので、私としても暗澹たる気持ちを抱えていたこともあり、なす術なく針金ハンガーのような母の双肩を見つめるだけの毎日に僅かな光明を見い出した、というのも理由としては十分だろう。
「じゃあ、行こうか」
そう答える私に飛びついては、
「明日、明日行こうね」
と言って母は大層喜んだ。
季節は、夏の終わり ――――
海の側の、山の連なる奥深い場所に母の生家はあるという。今年で二十六になる私はこれまで一度としてその村を訪れたことがなく、また、その存在さえも知らされていなかった。
生まれた時から東京住まいだった私にとっての田舎と言えば、何故か顔も知らない父親の生まれ故郷である鳥取県であったし、そもそも故郷についてはまともに答えてもらった試しがない。むろん、物心がついて以降これまでにも何度か尋ねた記憶はあるのだが、私の覚え違いでなければその都度、
「いつかは帰る時が来ると思うんだけどね」
と苦笑を俯かせては、これ以上踏み込んで来るなとばかりにやんわりと話を打ち切られてしまっていた。その内私も興味を失いやがて気にも留めなくなり、今回母が自ら切り出すまでは思い出す機会さえなかった。
母の生家は、その村でも割と裕福な家柄だったそうだ。自給自足で成り立っていたという村での貧富の差など、際立った特産物で他県への売り込みに成功していない限り、普通に考えればたかが知れていると思われる。だが、母の祖父には住民の誰も頭が上がらなかったというからおかしな話である。それが人徳によるものか歴史的な身分によるものかは母自身理解していなかったが、事あるごとに村人たちが挨拶にやって来る光景は、子供心にも誇らしかったと記憶しているそうだ。母は祖父のことをとても自慢気に語った。大好きだったのだ、と。
しかし、母は実家の稼業を把握しておらず、家がどのようにして生計を立てているのかを理解せぬまま育ったそうだ。他の住人同様、皆で農作物をこしらえ、それを分け合って食べ……といった長閑な暮らしを営んでいると想像していたと言うから、いかに平和で短絡的な思考回路であったのかと苦笑せざるをえない。
それにしても、疑問である。もちろん牧歌的な生活様式も現実にあり得ない話ではなかろうが、子供ながらに裕福と映る生活を維持していくためには圧倒的に足りないモノが多すぎるんじゃないか……と、首を捻る思いがしたものだ。
一体何が、母の家を裕福たらしめていたというのだろう?
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