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夢裡の邂逅は再会の知らせ
お漏らしの処理も終わりいよいよお説教かと思ったが、怒っているのは勝手に書斎に入ったことらしく、本に興味を持ったこと自体はお咎めがなかった。
むしろイレーヌは三歳の誕生日から文字を教えようと思っていたから、少し早いが自分から興味を持ってくれた息子の成長をうれしく思っていた。
生まれてすぐのころに妙な言葉を話していたのも、単なる夢の中の出来事だ。
少しばかり頭がよく、ずる賢いところがあるが、貪欲に知識を求める姿は騎士団で新米達を扱いていた鬼教官であるイレーヌにとってはむしろ好ましい。
多少の悪知恵も使いようだ。
我が子のひいき目ながら性質は良く、将来が楽しみだった。
「物語を読んでじゃなくて文字を教えてなんておかしな子ねぇ。ふふ、じゃあ、お母さんがご本を読んであげるから、文字の勉強をしましょうね」
「いいの!?」
「もちろんよぉ。これなら危ないこともないもの。でも、剣術の訓練は五歳から、そこは約束してね?」
「うん! やったぁ!」
結果オーライ、最後が良ければ全て良しだ。
少なくともこれで文字の勉強ができるわけで、本を読んで知識を得るという目的にはまだ達していないがそのための準備に取り掛かることができる。何事も基礎は大切で、目的を達するために丁寧に下準備をすることを怠る者は成長できないのだ。
それからしばらく、ニコの気配に怯えながら必死に文字の勉強をする日々が続いた。
◆◇
ああ、これは夢だ。
現実と変わらないように思えるのに、なぜかそう自覚できる時がある。
実際には細部でおかしな部分ばかりで、よくよく考えてみると矛盾だらけなのだが、夢の中にあってはごく普通の現実世界のように思えるのだ。
その時の夢も、そんなものだった。
つい先日四歳の誕生日を負えたはずのジグモントは青年と言ってよい年齢になっていた。
なんとなく、十五歳だと分かる。
あたりを見回してみると、丘の上に立っていることがわかった。
少し遠くのほうに村が見えるから、もしかするとそこがジルグモントが暮らす村なのかもしれないが、確信は持てない。
しばらく眺めてみるが、村の様子は薄い霧がかかったようで、妙にちぐはぐだ。
「……誰だ?」
気配を感じて視線を向けると、丘の頂上に立つ巨木の足元に人影が見える。夕方なのか、傾いた日差しでは影になって顔がよく見えないが、女であることは分かった。
「誰だ?」
もう一度問いかけるが、返答はない。
ただ、顔が見えないのに笑っていることだけは分かった。
まったくもって夢というやつは不合理極まりなく、理解し難いものだ。苛立ちを覚えたジルグモントが近づいて確かめてくれると足を動かしても、まったく距離が縮まらないのだ。
もはやこれはそういうものだと諦めるしかないが、いささかいいようにされているようで腹が立つ。
思い切って地面に転がる石を握り、人影に向かって投げつけてみた。
もちろん普段なら女性に石を投げるなんて、相手がニコでもない限りそんな暴挙に出ることはない。紳士とまではいかないが、女の子には優しくというのは修平だったからの祖母から厳しく言いつけられた言葉だ。
だからあえて頭二つ分くらい外して投げた脅しのつもりだったのだが、女はするりと右手を伸ばしてその石を掴んで見せた。
「嘘だろ、結構本気で投げたんだけど」
呆れたことに痛痒すら感じた様子もない女に驚いたが、女の次の行動にさらに驚かされることになった。
女は笑いながら掴んだ石を胸元に掲げ、両手で包むように形を作ってみせたのだ。
一瞬それが何か分からず目を凝らしたジルグモントだが、意味が分かるとぞっとした。
それはいわゆるハートである。
両手でハートの片側づつを作り、ハートの中心に石を抱えているのだ。
特に見るべきもののないありふれた行為。SNS全盛の昨今、年頃の女子であれば一度や二度はやったことがあるに違いない。だというのに、なぜこれほど驚くのか。
当たり前ではないか。
ここは異世界なのだ!
少なくともジルグモントはイレーヌとの四年間の生活でハートマークを見かけたことは一度もない。お絵描きの時間になんとなくハートマークを書いた時も「これは何の絵?」と言われ、返答に困って「心臓」と答えてびっくりされたくらいだ。
そのあと心臓の形を丁寧に絵にかいて教えてもらったのは冗長としても、この世界にハートマークという概念が広まっていないことは間違いなかった。
ならば、それを披露してくる女は誰か。
決まっているではないか。
ぎりり、と歯を食いしばり、ジルグモントはその女の名を呼んだ。
「ニコォ……っ!」
「ふふ……もうすぐだね、修平くん」
女――ニコは楽しそうに微笑み、そして唐突に姿を消した。
いや、違う。
夢から覚めたのだと気づいたのは、ベッドから飛び起きてすぐだった。
部屋の中を見回すが、いつもと変わらない。
一人部屋が欲しいと駄々をこねて手に入れた自室と、オルグが作ってくれた寝台と机、そして昨日読みながら寝落ちしたせいで地面に落ちた歴史書だ。
ただ、濃密にニコの気配が残っていた。
「十五歳……そうか、十五歳か」
なぜかは分からないが、確信があった。
ニコは十五歳になったジルグモントの元に現れる。
その時が、ニコを殺すチャンスだ。
そして、大地の聖母フィーレが言っていた使徒として得られる力が目覚めていた。
それがどんなものかは分からない。
ただ、一つの言葉だけははっきりと理解していた。
<慈悲の刻印>、それが大地の聖母フィーレから与えられたジルグモントの使徒の力の名前だった。
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