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愛情の結末
夏の日差しが和らぎ、秋特有のどこかもの悲しさを感じる空気が満ちる。
文化祭が終わり、校舎裏に一組の男女の影があった。
一人はやや少年の面影が残った活発そうな青年で、少し強めの癖毛が印象的だ。さぞや雨の日は大変だろう。
彼、浅木修平は一世一代の大勝負に出るところだった。
目の前に立ちはだかるは難攻不落の要塞、数多の男子達が撃沈した高嶺の花だ。
仁子ひまり。
修平の一つ上で二年生の17歳のはずだが、その落ち着いた佇まいは実年齢よりもずっと大人びて見せる。
黒い長髪で前髪を眉上で切りそろえる独特の髪型は、彼女の意志の強さを感じさせる切れ長の瞳を強調するようだ。
初めて目にした入学式、修平は恋に落ちた。
そこから熟成に熟成を重ね、ついにと決心した告白の日である。
「仁子先輩、好きです!!」
ここまでシミュレーションは完璧。男は度胸、勢いこそすべてと口をついてでた言葉はひどく平凡な告白の言葉だが、それがどうしたというのか。
そこに込められた溢れるほどの万感の思いは、どんな言葉でも表現できない。だからこそ、端的に、真剣に、真摯に、修平は思いのたけを伝えたのである。
だが、それに対して彼女はいささか不思議な対応だった。
小首を傾げ、科学者が被験者を観察するようにじろじろと足元から頭のてっぺんまで見回すのである。
地獄のような時間は思いのほか短かったようで、彼女は首を縦に振った。
「いいわ。付き合いましょう」
「……え? 本当に?」
嘘だろまじかよお母さん。
思わず訳の分からない言葉がお手てを繋いでタップダンスを踊る様を夢想しながらの驚愕の表情。彼の名誉のためにいえば、それほどに彼女に告白して散った男達の数は多く、彼と彼女の関係性はお世辞にも濃くなかったのである。
図書委員の彼女が、月に数度図書館の受付業務をしている時に、普段は読まない本を借りに行くだけ。他の生徒もいるし、本の整理などの別の作業もある彼女と世間話などをするわけにもいかず、実に事務的な会話しかしていない。
「こんにちは」
「この本を借りるのね」
「それじゃあ、さようなら」
正直に言ってしまえば、その程度の会話しか交わしてこなかったのである。
告白が成功するなど思いもしなかった。
断られてもいいから溜まりに溜まった自分の思いを伝えたい、ただその一心だったのである。
「本当に、ってなにかしら。私が嘘をついているとでも言うの?」
「ち、違います! 本当に、あの、本当に付き合ってくれるんですか!?」
「ええ、そうよ。よろしくね、彼氏くん」
微笑みすら浮かべず、無表情に言う彼女はどこかおかしい。
でも、そんなことどうでもいいと叫びたくなるくらい、修平は幸せの絶頂だった。
だからこそ、なのだろう。
彼女がそのあとに続けた言葉にも、修平は何の疑問も抱くことなく返事をしていたのである。
「最初に言っておくのだけれど、私はかなり嫉妬深いわ。それでもいいかしら?」
「もちろんです!」
「あと、私の趣味は少し特殊なの。付き合ってくれる?」
「そんなの、もちろんですよ!」
「そう、よかった。嘘つきは大嫌いよ。ずっと、ずっと、ずーっと一緒にいてくれるわね?」
「はい、一緒にいます!!」
勢い込んで頷く修平をじっと見つめ、彼女はようやく納得したようだ。
「きっとよ、修平くん」
そよぐ秋風に前髪を揺らし、彼女は柔らかにほほ笑んだ。
あれ、名前を教えたっけな?
少しだけ気になったが、初めてみた彼女の微笑みに心を奪われ、そんな疑問はすぐに忘れてしまった。
ああ、きっとここがターニングポイントだったのだろう。
彼が深い後悔を覚えるのは、それからわずか半年後のことだった。
◇◆
ごんっ、という鈍い音が鳴り響く。
昼間だというのに薄暗い部屋だった。
遮光カーテンで締め切られたにしても隙間から漏れる光すらないが、それもそのはずだ。カーテンの向こうは偏執的うに板で塞がれており、光の一筋すら侵入を許していなかったのだ。
修平はその部屋の中心で、椅子に縛り付けられたまま横倒しになっていた。
ほとんど全裸だ。
下着だけは着用を許されているが、それとて何日着たのかわからないほどにしわくちゃで、眉をしかめるほどの異臭を放っている。
それゆえというわけでもないだろうが、すでに彼の目に力はなく、どことも知れない空間を虚ろに見つめるだけの無機質なガラス玉同然だった。
彼は監禁されていたのである。
無気力な彼の様子からも分かる通り、その期間は想像以上に長い。すでに時間はないが、十日目までは数えていた。きっとその倍、下手をすれば一か月以上経っているかもしれない。
油でべっとりと肌に張り付く髪も、こすれば垢が剝がれそうなほどに皮脂が浮いた肌も、もはや気にならないほどに衰弱していた。
彼をここに監禁した者は、風呂はおろか満足に食事すらも与えず、彼の気力という気力を奪うことに丁寧に、それはもう針の先を通す慎重さで腐心していたのである。
それでも、それでもだ。
部屋の外で押し問答をする男女の声は、彼にとって最後の希望だった。
どちらも聞き覚えがある。
男は彼が小学生の頃からつるんでいる親友で、幼馴染だ。そしてもう片方の女は、彼の愛する――一いいや、愛していたというべきだ。力いっぱいに――彼女である仁子先輩だった。
気づいてく、お願いだ。一縷の希望をかけ、疲弊した体を無理に動かすことでなんとか椅子ごと倒れるて合図を送れた時は、心の中で快哉を叫んだ。
ああ、これでもしかしたら。
音に反応するように一瞬静寂が訪れ、すぐに幼馴染が声を張った。
「何の音ですか。やっぱり、中に誰かいるんじゃないんですか?」
「あなた、しつこいわ。誰もいないと言っているでしょう。猫を飼っているだけよ。修平くんがいなくなって、悲しんでいるのはあなただけではないのよ。それとも、私が何かしたという証拠があるというのかしら?」
「そ、それは……」
「ないのでしょう。なら、中に入れるなんてできないわね。女の一人暮らしに踏み込もうとする男性なんて、とても怖いんですもの。どうしても中を見たいのなら、警察を連れてきなさいな」
凛とした女性の声が、訪問者を突っぱねる。
ああ、一度は惚れたその涼やかな芯の通った声が、この時ばかりは恨めしかった。
彼女を突き飛ばしてでも入ってきてくれ、そう思うが、願いは叶うことはなかった。
彼は知る由もないことだが、友人と彼との間にはドアチェーンがかけられた扉があり、力づくでどうにかなる問題ではなかったのだ。
仁子の様子が怪しいとは思いつつも、どうにもならない。ならば彼女の言う通りに警察に駆け込もうと決断したのも無理からぬことだった。
さすがに、本当にいるかどうかわからないのに窓を割って押し入る、などという判断はできない。彼女の家から交番までたったの五分、それだけの時間ならきっと問題ないはずだ。
彼の中で折り合いがつけられた決断は、きっと永劫の後悔を産むことだろう。
あるいは修平がここで助けを呼ぶことができればまた違った未来があったかもしれないが、残念なことに彼の口から出るのは掠れた息が漏れる音だけだった。
友人の慌ただしい足音が遠ざかっていく。
絶望に打ちひしがれていると、友人の足音の代わりに別の声が響いた。
「帰ったわ」
室内の空気が一瞬にして冷えたような気がする。
寒々しいほどの苛立ちを秘めた言葉を吐いた女は、壁を探って灯りをつけると、彼の側にゆっくりとしゃがみ込んだ。
「あなたのお友達、本当に憎らしいのね」
されるがまま頭を持ち上げられ、彼女の顔が正面から見えた。
ああ、やっぱり仁子先輩は綺麗だ。
切れ長の瞳の中に怖気のするようあ異常な愛情があるとしても、その感想は変わらず、闇夜に浮かぶ花を思わせた。
ただし、愛した男を腐らせる特級の毒花ではあったが。
「あの方、警察に通報するのですって。さすがに、警察が来たら部屋の中を見られてしまうわね。そうしたら、きっともう一緒にいれないわ」
悲しげな表情で彼女はそう言うが、優しく頬を撫でる指には微塵も動揺が感じられない。
怖い。目の前の女がどんな突拍子もないことを言い出すのか、彼には分からなかった。理解できない奇怪、ゆえにこそ、恐怖は煽られる。
「もう修平くんを愛でることができないなんて……痛みに震えたり、苦しみに喘いだり、絶望に嘆くあなたとともにあることができないなんて、私には耐えられないわ。ねぇ、あなたもそうでしょう?」
「…………っ」
その時の彼の表情は、面白いほどに引きつっていただろう。
イカれたことをのたまう目の前の化け物の言葉に全面的な反対を表明したいのに、極度の疲労がそれをさせない。
我知らず、涙があふれた。
悔しい。悔しい、悔しい、悔しい。
こんな女を好きになったことも、いい様に弄ばれて狂気じみた愛情を一方的に押し付けられることも、それを否定するわずかな力すらないことも、すべてが悔しい。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな!
かひゅ、かひゅ、という音しか出ない喉を精一杯震わせる彼の姿に、彼女はそれはそれは嬉しそうに微笑んだ。その笑みは慈愛と歓喜に満ち溢れ、聖女もかくやというほどに神々しい。
「私、修平くんに告白された時、本当にうれしかったの。ずっと、一生、永遠に、永劫に私のものになってくれるんだもの……あなたが頷いてくれて本当にうれしかった。本当はもっともっとあなたの苦しむ姿を愛でていたいのだけれど、どうもそううまくはいかないみたい。困ったことよね?」
くすり、と彼女は笑った。
彼女と付き合うことになってから見ることが増えた、柔らかな微笑みだ。痛みを与え、苦痛を与える時にこそ深まる、歪んだ美しい笑顔だった。
「だからね、今回はこれで終わり。次はもっとうまく愛してあげるわね」
彼女の手には、鈍い光を放つ包丁が握られていた。
「愛してるわ、私の可愛い修平くん」
唇と唇が重なった。
それはひどくおぞましい接吻で、彼は思わず彼女の唇に嚙みついていた。
「あら、やだ。痛いわ」
力が入らずに噛み千切ることこそ叶わなかったが、それでも溢れた血が口腔を満たし、喉に流れ込む。激しくせき込んだが、代わりに久しぶりの水分にわずかに喉の渇きが癒えていた。
「こ……の、くそ、女……」
「私の可愛い修平くん。そんな口の利き方は駄目よ」
下唇が裂けた彼女は、真っ赤な血を滴らせながら凶器をついと動かした。
ただそれだけで、修平の顎から鼻先にかけてがぱっくりと裂ける。
「あっ、あぎぃぃ……っ!!」
「悪いお口にはチャック、ね。逆に開いちゃったけれど、もう関係ないわね」
吹き出す血潮に体を濡らし、ふふっと微笑む彼女はひどく毒々しかった。
「安心してね。私もすぐに逝くわ。次に生まれ変わっても、きっと一緒よ」
「ふざけろ……仁子……っ」
振り下ろされる刃物がずぶり、と体に埋まる感触を感じながら、彼は声にならない呪詛の叫びをあげていた。
ふざけろ、ふざけろくそ女。
次に生まれ変わっても一緒だと?
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
絶対に逃げ切ってやる、絶対にお前じゃない女と幸せになってやる!!
「ははっ……悔しけ……邪魔……みろ……」
消える意識の中で、彼の決意は固く、その魂に刻まれた。
そしてそれは、仁子もまた同じだった。
「ずっと一緒よ、修平くん。愛しているわ」
憎しみではなく、どこまでも深く澄み渡るような愛情からの決意が――例えそれが他者から見た時にどす黒く腐れた汚物のような代物だとしても――深く、深く魂に刻まれていたのである。
そうして、物語は紡がれる。
憎しみと、愛ゆえの決意の物語が――
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