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目覚めと尊厳の喪失
目が覚めると赤ん坊だった。
どうやら生まれた瞬間というわけではなく、周囲は産婆や両親の姿がなかった。周囲を木の柵で囲われたベッドの上で寝かされているらしく、天井には父親のお手製なのか、荒い削りの木彫りの動物達が揺れている。
少し離れた位置には窓があるが、視点の高さ的に見えるのは空だけだ。
ただ、それだけでもう自分がいた世界ではないとわかる。
なにせ、太陽が二つある。
仲のいい番の鳥よろしく、並んで空に浮かぶ太陽というのは珍しく、興味深かった。
間違いなく異世界に転生した。
ならばあの胡散臭い詐欺師のような神フィーレの言った言葉も事実ということで、修平はこの世界で神様とやらの代理戦争に明け暮れなければならない。
しかも、相手はとびっきりの頭のネジの飛んだ女、ニコである。
怒りゆえにとっさに殺してやるなんて喚いたものの、フィーレ曰く、魂の力の差は圧倒的だ。
愛情に付け込んで殺せ、そうフィーレは言った。
果たしてあの女にそんなことが可能なのか。
確かに愛情はあったのだろう。
いや、ありすぎたと言うべきか。
歪んだ愛情は修平を束縛し、友人どころか学校で女子と雑談することすら嫌う始末。SNSでの連絡は一日に何件なんて生易しいものではなく、封単位だ。
いわゆるメンヘラ……いや、ヤンデレというものか。
ただひたすらに濃い愛情を押し付けられた日々を思い出し、ため息が漏れる。きっといまの修平は眉間に深い皺を刻んでため息をつく赤ん坊という、世にも珍妙な生物になっているに違いない。
そんなくだらないことを考えながら、そっと手を持ち上げる。
太陽の光を透かして見ても、そこに傷はなかった。
監禁され、ニコに愛された数週間。
あの女の愛は異常だった。
束縛し、自分だけの物にしたいという嫉妬の感情であればまだ修平とて理解できる。行き過ぎたそれは毒にしかならずとも、その根源となる欲求は誰のうちにも多少なりとあるものだろうから。
だが、あの女の中で蠢く愛とやらは、それらとは一線を画す。
あれは愛を口にしながら修平を痛めつけ、傷つけ、苦しませ、そうして苦悶する彼を眺めることで愛を感じていたのだ。傷つけることでのみ愛を感じる、そんな化け物が存在するという事実に、監禁された当初の修平は困惑し、混乱した。
たった数週間で修平の体に痣がない場所などなくなったのだ。
いま陽の光に優しく照らされた柔らかな赤ん坊の腕を見れば信じられないが、確かに見るも無残な痣と裂傷だらけの腕だったことを思い出す。
あれを殺す?
できるのか?
やるしかないというのはわかっているが、それでも修平の中には不安が渦巻いていた。
◆◇
こちらの世界での修平の名前がジルグモントだとわかったのは、その日の夕方だった。
母親と思しき女性が様子を見に来て、「ジルグモント」という名を繰り返し発していたのだ。同時に「ジル」という言葉も繰り返し発していたから、恐らくジルグモントが正しい名前で、ジルは愛称なのだろう。
ただ、残念なことにそれ以外の言葉はわからなかった。
異世界転生といえば言葉が分かるというのが王道だが、なんともハードモードにすぎる。その事実に気づいた時、修平――ジルグモントは大いに驚き嘆いた。
『ううん、本当かよこれ……最悪すぎるだろ。神様、どうせ送るならしっかりしてくれよ』
その時のジルグモントは気づいていなかったが、その言葉を聞いた母親もまた大いに驚いたに違いない。
なにせ、昨日まで普通だった赤ん坊がぐずって泣くこともせず、あげくの果てにしかめ面しい表情で聞いたこともない言語で悪態らしきものを吐くのである。
結果、母親は卒倒した。
ごづん、と鈍い音を立てて仰向けに床に倒れた母親を見送り、ジルグモントはようやく事態のまずさに気づいたのだった。
『やばいこれ、やっちまった?』
当然、やっちまっていた。
物音に気付いた父親が部屋に駆け込み、倒れている母親に気づいて何事かを叫ぶ。目覚めた母親は半狂乱で手が付けられない様子だった。
必死に赤ん坊を指さして叫ぶ母親に、困惑しながらも父親がジルグモントを抱き上げた。
相変わらず何を言っているかわからないが、何事かを質問されているのだけはわかった。
どうする、どうすればいい?
ちらりと見れば、父親の腰には異世界ご用達の長剣が佩かれている。
異世界といえば知識不足が常識。
さらに神が身近とくればさぞ迷信深かろう。
そこに見知らぬ言語を流暢に話す赤ん坊が現れればどうなるか、火を見ずとも明らかだ。下手をすれば火の輪くぐりでございとばかりに火の中に投げ込まれかねなかった。
悩みに悩んだジルグモントを前に、顔を険しくしていく父親。
進退窮まるとはまさにこのことである。
母親と同じくプチパニック状態になったジルグモントは、結果として禁じ手を選択した。
両手を広げて明るい笑顔を浮かべ――
「バ、バブゥー……」
羞恥心などすべてを置き去りにしたばぶぅを発することしばし、父親は肩をすくめて母親をなだめに向かった。
ジルモントの人としての尊厳と引き換えに、危機は脱されたのだ。
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