ジル、二歳。黄昏れの染み。

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ジル、二歳。黄昏れの染み。

 ジルグモント、二歳の夏。  彼は黄昏れていた。  ようやく家の中を自由に歩くことを許され、あちこち好き放題に探検できるようになった。対ニコの準備を整えるためにもできることはやるべきだ。  だが、それでも彼は黄昏れていた。  彼の目の前には布団と、無情にも誰かがおもらしした痕跡がしっかりと残っていたのだ。 「……ふっ。犯人は必じゅ見つけるじぇ」  頑張っている異世界言語のせいでさ行が発音しづらいことも相まって、全然決まらない。そもそも、カッコつけてみても現実逃避にしかならないのだ。  なぜといえば、そもそも自分で漏らしたことを誰より自分が理解しているからだ。  ジルグモント、二歳。  精神年齢十八歳にしてお漏らしを嗜む。 「くっ……心が……死んでしまう……」  十八歳の大人としては人としての尊厳を失いかねない大惨事なわけだが、正直こんな三文芝居を演じられるほどには慣れてきていた。赤ん坊といえばお漏らしどころか後ろも漏れる。赤ん坊の筋肉でトイレに行くなんてできるわけがなく、泣いて助けを求めるしかできないのだ。  そして現れるのは母親という名の年若い美女。  抵抗虚しくあれよあれよと下半身をむき出しにされ、丁寧に処理をされたあげく「今日もいっぱい出したねぇ。ジルは元気だぁ」と笑顔で告げられるのである。  そんな日々を乗り切ったジルグモントにとって、おねしょ程度は多少黄昏れる程度の問題だったのだ。  これが、慣れ。  強くなったな……などとひとしきり黄昏れた後、布団の端を掴んでよたよたと部屋の外に出た。何はともあれ布団を洗濯してもらわないと、今日の夜は父親の布団に連れ込まれてしまうのだ。  美女の母親であればまだご褒美なのだが、毛むくじゃらの父親とあっては拷問でしかない。だからこそ、重たい布団を精一杯引っ張りながら居間へと向かった。 「あら、ジルったらお布団持ってきて……あ、またやっちゃったのぉ?」 「漏らしたじぇ!」  反省はしていない、とばかりに宣言すると、朝食の用意をしていた母と、仕事に向かう準備をしていた父が大声で笑った。 「あらあらあら、もう困った子ねぇ」 「元気が良くていいじゃないか、イレーナ。子供は漏らすもんだ」 「オレグったら、ちゃんと叱らないとダメよ」  頬を膨らませるイレーナをなだめながらがしがしと大きな手でジルの頭を撫で、ひょいと持ち上げて膝の上に乗せる。申し訳ないが、怒ったイレーナを前にしてはここが一番の安全圏と素直にお邪魔した。  まじまじと見るまでもなく、父も母も美形だった。  母であるイレーナはどこかほんわかした暖かい雰囲気で、いつもおっとりとしたお姉さんという風貌で、長い黒髪が美しかった。普段は三つ編みにしているが、お風呂に入る時などに髪を解くと、波打つ黒く輝く水面のように見えるのだ。  父であるオレグは美形だが、いわゆるジャニーズなどのような線の細い顔立ちではなく、野性味溢れる偉丈夫である。無精ひげなどむさくるしいだけでしかないが、オレグに関していえば精悍さを際立てる役に立っていた。  二人とも黒い髪に黒い瞳で、その遺伝的素養はしっかりとジルにも受け継がれている。  ただ、オレグの毛深さが遺伝するのだけは勘弁してほしい、とても本人には言えないが、ジルは真剣にそう願っていた。 「さ、朝食にしましょう。あなたも急いで食べないと、お隣のヨルムさんをお待たせしちゃうわよ」 「おお、そうだな。隣山でモーグが出たらしいからな。あれは痕跡を良く残すから見つけやすいが、早めに山に入らないと夜までに仕留めて帰ってこれん」  大慌てで麦粥を掻き込む父親を見ながら、ジルは聞いたことのない言葉に首を傾げた。精一杯のあどけない子供アピールである。 「モーグってなぁに?」 「ああ、魔物だよ。元は猪なんだけどな、穢れに汚染されちまって正気を失っているのさ。穢れは賑やかなところを好むからな、早く仕留めんと里にまで下りてきて大変……って、お前に難しいこと言っても仕方ないか」 「しょんなことないよ。魔物が村に降りてくるから、お父しゃんが退治するんでしょ?」  オレグは嬉しそうに頷き、またがしがしと頭を撫でた。  乱暴だが、どこか優しい手つきをジルはそこまで嫌いではない。されるがままに撫でられ、もう一度首を傾げる。 「お父しゃんが退治するってことは、お父しゃんは強いの?」 「おお、強いぞ。昔は騎士団に務めていたからな。あ、でも母さんのほうが位は上なんだ。ああ見えて物凄く強いんだぞ」 「しょうなの?」  振り返ると、イレーヌは照れたように顔を赤らめる。  どこからどう見ても年若くか弱い、ついでに美しい母親にしか見えない。毛むくじゃらの熊のようなオレグが騎士団にいたというのは理解できるが、イレーヌも同じ騎士団所属でオレグより強いというのはいかにも眉唾臭かった。  オレグはどうもそういうしょうもない冗談を言うことがある。  またぞろ冗談かと呆れかけたが、オレグは上機嫌に続けた。 「本当だとも。雷鳴のイレーヌと言えばこのあたりの国で知らぬ者はいないんだ。雷撃の魔術を応用した高速移動と槍さばきは絶技ともてはやされてな、俺なんて一度も勝てたことが――ぐほっ」 「あらやだ、オレグったら。昔のことよ」  イレーヌの軽く振った平手がオレグの肩に当たり、めぎり、と嫌な音がして吹っ飛びかけた。  オレグが辛うじて踏みとどまっていなければ、ジルごと吹き飛んで壁に激突していたところだ。  どこにそんな力があるのかと不思議なほど、イレーヌの膂力は凄まじいらしい。そういえば以前、瓶のふたをあっさりと開けているのを見た事がある。その時もめぎぃともめぎょぉとも表現しづらい不気味な音を立てて蓋を開けていたのだ。  なるほど、これは怒らせたらダメだ。  ジルが確信するには十分だった。 「ね、ねぇ、お父しゃん。僕も剣とか槍とか、練習したい!」 「ん? なんだ、騎士になりたいのか?」  ジルは一瞬言葉に詰まった。  別段騎士になりたいわけではなく、ニコと戦う時のために力が欲しいのだ。例えニコのほうが魂の力が上で騙し討ちにするしかないとしても、その時に戦う力があったほうがいいに決まっている。  少なくとも、その時になって後悔することだけは絶対にしたくない。  ニコという災厄とお別れし、素敵な彼女を作って幸せライフを送るという野望のために全力を尽くすのだ。  さりとてそれを素直に伝えられるはずもなし。  どうしたものかと言葉に詰まったわけだが、ここはオレグに乗るしかないと判断した。 「う、うん! 騎士になりたいの!」  合わせて精一杯の上目遣い攻撃を敢行。  これで堕ちない親父はいないと断言できる。  案の定、オレグは顔をだらしなく蕩けさせた。 「うんうん、いいぞいいぞぉ。次の仕事休みに教えてやるからな!」  計画通り、ちょろいぜ。  心の中でにやりと笑うジルだったが、思いもかけない方向からストップがかかった。 「ちょっと、ダメよぉ。騎士になりたいのはいいとしてもまだ子供なんだから危ないことは禁止よぉ。せめて五歳までは我慢ね」 「そ、そんな、お母しゃん……っ!」 「イレーヌ、いいじゃないか。せっかく本人がやる気になってるんだしさ。危ないことなんてないって」 「あら……本気で言ってるぅ?」  一瞬、イレーヌの目がぎらりと光った気がした。  その時のジルは察することができなかったが、この時雷鳴のイレーヌと呼ばれた現役時代を彷彿とさせる戦気が迸り、恐るべきことに正確にオレグだけを貫いていた。  子供には一切気配を感じさせない絶技は、まさに雷鳴のイレーヌに相応しい神業だった。 「あー……うん、そうだな。五歳までまとう。そうしよう」 「お父しゃん!?」 「弱いお父さんでごめんなジル。でも無理なんだ。じゃないとお父さん明日からジルに会えなくなっちゃうから。諦めてくれ」  後にジルは語る。  あの時の父の目はマジだったと。
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