葬送不悔(そうそうふかい)

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 沙羅が生まれる前、確かに私はアイドル界の末席にあった。と言っても、国民的グループの一員ではなく、地下アイドルの一員でもなく、在住している市の、ローカルアイドルグループの「練習生」だった。  そのグループは、事実、二枚のCDを出している。ネット直販限定のもの。大手通販サイトや店頭では手に入らず、フリマサイトで稀に出品される程度の無名なCDだ。  私は「練習生」だったから、歌唱の録音には参加していない。でも「練習生」だったからこそ、その歌を唄えなければならかったし、振り付けだって懸命に覚えていた。  統括プロデューサーの()()さんという男性は、私に約束したんだ。 『あと三ヶ月したら、正規メンバーにする。だから頑張るんだぞ』と──。  私が籍を置いていたグループは、十二歳から十七歳までの少女たちが、地域発展と自己肯定のために、基本的に無給で参加していた。やや広域な部活動のようなもの。私は十六歳だった。学校が休みのときや長期休暇の際には、商業施設やお祭りや老人ホームなどを回って、そこにいる人たちに(つたな)い歌を届けていた。 「練習生」は、私を含め三人いて、仕事をするときは完全な裏方だった。機材の配線も覚えたし、短時間で椅子を設置することも、身体の不自由な方を誘導する(すべ)も身に着けた。  正規メンバーは当時一年以内に三人脱退することが決まっていて、三人の「練習生」はもれなく正規メンバーになれるはずだった。  でも、ある日、統括プロデューサーの猪野さんは、全メンバーを集め、口調強くして言った。 『来月をもって、グループを解散にすることにした。きみたちの中に、ルールを破った者がいる。恋愛は禁止だと何度も言ったろう。誰とは言わないが、その禁を破った者がいるんだ。よって連帯責任として、グループは解散する』  悔しがる子がいた。烈火のごとく怒る子がいた。誰がルールを破ったかと問い詰めて回る子がいた。誰だって、グループを存続させたかった。恋愛は仕方がないことだと分かっていても、猪野さんにバレた愚かな子が憎らしかった。  結局、私を含めた「練習生」は昇格することなく、グループは解散となった。大々的なイベントなんて行えないが、最後にミニコンサートぐらいはやると思っていた。だけど、動画投稿サイトで解散の報告を行い、ホームページに形式的な文章を載せただけで、私たちが青春の一部を捧げた活動は(うた)(かた)のようにこざっぱりと消えてなくなってしまった。
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