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「君子は矜にして争わず群して党せず」という論語に肖り、己は主体としての自己を頼みとし、俗物を真面に相手にせず、MASSの中では孤高を保ち、決して徒党を組まないと自戒する男。彼は主体としての自己を誇らしく思っているのに違いなかった。しかし客体としての自己に自信を持っていなかった。トレンドに乗っかていない、と言うよりトレンドを集団と同じく蔑んで故意に避けている。目まぐるしく変化し、多岐に亘り過ぎたグルメや娯楽を楽しむ上で濃密さを欠き、恋愛にしても自由度が増したのが却って軽いノリになりがちになり、味わいが薄くなる、幽玄とは縁遠い現代文化に対する反発心と多種雑多なあらゆるもの、殊に刺激の強すぎるドラスティックなものに食傷して原点に立ち返って純な素朴なものを愛するようになった特異性に誇りを持つが、周りから浮いている自分を意識して自信を持てないでいた。否、それより何より青年時代からスポーツより本に親しんで男として貧弱であること甚だしい体に自信を持てないでいた。
糅てて加えて世紀末的に退廃した俗世で結果的に低俗な女としか付き合えなかった苦い経験がトラウマとなっただけに聖母マリアのように純潔な処女の儘、受胎出来る女性を理想とするロマンチストになった彼は、肉欲から離れた魂の交わりだけの高踏的な愛で結ばれることを渇望していた。
枝にとまる番いの目白のように寄り添い、純真無垢に自然に溶け込みながら語り合うだけで、もっと言えば黙契を交わすだけで愛が深まっていくプラトニックラブがしたかった。
彼は晩春の或る日、書斎で髙井純子という女性からのファンレターを読んでいた。自分の恋愛小説について感想が綴られていて是非とも先生にお会いしたいとのことだった。そう、彼は徳永清新という純文学作家なのだ。
今まで何通も送ってきた熱心なファンであるし、非常にリテラシーが高い女性に思われたので深く理解し合えるのではないかとの期待から断れなくなった清新は、彼女と会うことにした。
初対面は自邸の応接間だった。取り次いだ家政婦に通された純子を見るなり清新は驚愕した。目を疑う程、半端でなく意外だった。若いとは知っていたが、ベルトでウェストを絞ったノースリーブのワンピース姿は頗る刺激的だった。胸の盛り上がり、腰の括れが顕著であり、女としては背もあり、すらりとして何といっても麗しいルックス。唇が燃え立つように赤く艶めかしく鼻筋がくっきりと通り目がきりりとしてシュッとした顔立ち。仕草も物腰も楚々として落ち着いていて、それでいて大人の色気に満ち溢れている。
まさか、こんな美人がやって来るとは・・・清新は瞬く間にその稀代で奇跡的な美しさの虜になってしまった。そして話している内、未だ嘗て意識したことが無かった感情が勃然と芽生えた。それは紛れもなく純愛への憧れを覆す情炎に他ならなかった。
純子はモデルの仕事をしていることを明かした。それを手紙で明かすと、手紙の内容で会ってくれるのではなくてモデルと知って会ってくれることに成り兼ねず、そう思いたくなかったから先生とお会いしてから明かしたのですと開陳した。で、仕事柄、色んな撮影現場でデザイナーやスタイリストやカメラマンやメイクアップアーティストや雑誌の編集者等との出会いがあり、今まで何人かと付き合った男との経験や何度も痴漢に遭った経験から男なんて皆、私の体しか求めてないんだわと諦めていた所へ持って来て醜い交わりを拒絶した高度に精神的な純乎たる先生の恋愛小説にぶち当たり、無上の感動で魂が揺さぶられたのだそうだ。
そう知って清新は赤面する程、気恥ずかしくなった。ことによると自分は体が貧弱な故に斯様なグラマラスな女性から侮辱されるのではないかと鬼胎する余り距離を置いて虚勢を張って雲中白鶴を気取っていただけではないかと思えたのだ。それでは俗物と変わりないではないかとさえ思えたが、彼女を自分の純愛を問う試金石にしようと次の面会は夜間にすることにした。その日は家政婦に暇を出すことにしたから二人きりで夜明けまで語り合おうというのだ。
季節はむんむんするような初夏で純子は前にも増して肌を露出している。と言ってもスカートの丈が少し短いだけなのだが、庭園の泉水の畔にたくさん植えられた棕櫚の花が金の欠片のように夥しく散り落ち、ライトアップするLEDライトに照らし出され、或る一面は金の絨毯のように見える。
そこに立って語り合っていると、匂い立つ程に生々しく煌めく黄金色に煽情される所為か、できれば純子を押し倒し、その儘、契り合いたい衝動に時折、襲われるのだが、徒でさえ体が貧弱なのにハイヒールを履く純子より背が低いので劣等感を覚えた清新は、目的を果たす自信が泡沫のようになくなるのだった。
きらきらと輝かしい泉水の水面には男と女が隣り合って映っているというのにいつまでも交じり合わない法はなかろうと実の所そんな気もする清新であったが、彼が抱くコンプレックスのお陰で却って純子は彼に対する敬愛の念を抱いた。その証拠に純子は後日、清新に宛てたファンレターにこう書いた。
「清新様と過ごしたあの特別な一夜は、まるで星明りの日溜まりのようで私まで心が洗われて純な温かな明るい気持ちになり、初夏の夜の夢として一生、鮮烈に私の記憶に残ることでしょう」
或る意味皮肉なことだが、現に清新は豊富なボキャブラリーを生かして純愛を求める純子をうっとりさせる言葉を夜空の星々の如く無数に生み出し、黎明まで処女を相手にするように滔々と語り明かしたのだった。
一夜明けて冷静に考えてみて処女な訳がないと清新は今更ながら当たり前のことのように思った。レートリケーを駆使した自分の言葉に酔いしれ、無我夢中で話していたし、素直な少女のように彼女も酔いしれているらしかったのみならず、ディアレクティケーを駆使した自分の言葉に納得し、素直な少女のように彼女も納得しているらしかったから処女といるような幻想に耽溺してしまったのだろう。
あんまり綺麗すぎて男の誰もが自分には勿体なすぎると諦めて口説くなんて滅相もないといった具合に口説かれたことが無くて処女の儘でいるという場合も有り得るが、何人かと付き合ったことがあると言っていたから今までどんな風に口説かれたことがあるのかと今度、話す時は訊いてみようと清新は決心した。
3度目に話し合った場所は勿論ホテルの部屋とかではなく有りがちなレストランでもなくまたもや徳永邸となり、リビングだった。これは食事とかは良いんです、純粋に話し合いたいんですと予め純子が希望したのを清新は吞んだ結果、そう決まったのだった。
フレグランスとクーラーが良く効いた爽やかで涼しい中、二人はミニテーブルをはさんでソファに座って既に恋人同士のように仲睦まじく話し合っている。
「私、熱心に誘われると、断れない質なんですけど、付き合いだしてからガチで口説かれる時分には相手を受け入れられなくなってしまいますから結局、別れ話になるんです」と件の質問の返答を受けた清新は言った。
「どんなに口説かれても?」
「ええ」
「気に入らないから?」
「ええ、だから私、体を求められても拒み続けましたわ」
「しかし、強引に来る男もいたでしょう」
「ええ、でも私、実は護身の為、合気道を習っていますからいざとなれば」
「へえー、それは凄い・・・」と言いつつ清新はとても敵わないと思い、男として改めて情けなくなり、その反動で純子になよなよとした弱弱しさを求めた結果、冗談っぽくこう訊いた。「では茶道なんかも嗜まれたりなんかして?」
「ふふ、いえ、私、どちらかと言うと、体を活発に動かすことが好きですからエアロビをしてますけど」
「ああ、成程、先天的なものと後天的なものもあってその様に美しくなられた訳だ」
「また、お上手を仰って、ふふ」と純子は含み笑いをすると、ここぞとばかりに、「御覧になりたい?」と一段と甘い声で問うた。
すると、「えっ!」と清新が思わず声を上げるや、純子はハンドバックからパンフレットを取り出して清新の前に置いた。
ページを捲って行くと、ランジェリーメーカーや水着メーカーの広告であろう、純子がモデルになったビキニスタイルの写真が幾つもめくるめく清新の目に飛び込んで来た。
「ど~お、先生、お気に召して?」
「いやあ、す、素晴らしい。道理で男が放っておかない訳だ・・・」清新は正直、谷間の深い弓なりにパンパンに張った豊満な胸を一糸纏わぬ姿で見てみたい欲求に駆られたが、まじまじと見ていてはメンツが立たないとばかりに直ぐ顔を上げ、純子と目を合わすと、その爛々とした輝きに絆され、白い歯を見せて華やぐ笑顔が堪らなく蠱惑的なので堪らず下を向くと、また純子のビキニ写真が目に入り、羞恥心を重ねた顔で恐る恐る純子の花顔を窺った。
すると純子は然も嬉しそうに嬌笑を浮かべて言った。
「うふふ、失礼ですけど、先生もやはり男でいらっしゃるのね。でも、愚弄しているのではありませんわ。寧ろ私、嬉しいんです。だって私の心だけでなく肉体も好きになって欲しいんですもの」
「では君は僕の心だけでなく、ま、まさか・・・」と清新が秘かに期待しつつ自嘲気味に口籠ってしまうと、純子は顔色を変えずに言った。
「卑下なさってはいけませんわ。だって烏滸がましいようですけど、先生は肉体を補って余りある心をお持ちだし、逆に憚りながら私は心を補って余りある肉体の持ち主という訳でお相子ですもの」
客体としての自己に自信を持っているからこそ言えることだが、忌憚のない正直な子だと清新は感心しつつ大らかに言った。「いや、あの晩も言ったでしょう。有象無象の中で異彩を放ち、万緑叢中紅一点、或いは泥中の蓮で君は花も実もある乙女で心だって素晴らしいよ。逆に僕の心は全然大したことはないなと君によって思い知らされた。だからもし僕たちが結ばれるなら君の方が全然、割に合わないな」
「そんなことないですわ。だって先生はこれから私と交際なさってふふ」と純子は流石に照れて、「色んな経験を肥やしになさってもっと良い小説をお書きになってもっと偉大になられるに違いありませんもの」
そう言われて脂下がって、「いやあ、君は本当に有難い人だ。僕は断然やる気になったよ。頑張ってみせるよ!」あっちの方もと言っているかのように歓喜する清新であった。
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