72人が本棚に入れています
本棚に追加
10、純白の婚礼衣装を-1
「お早う」
「……おはよ」
佑輔の笑顔は郁也を幸せにする。
今日は卒業記念の撮影会。地元の写真館に、両家の面々が集まっていた。
谷口家は、珍しく日本にいた父と、母。
瀬川家は退院した父と母に、兄夫婦。こどもは預けて来たらしい。
母同士以外は今日が初めての顔合わせだ。弘人が何やら取り出して、挨拶替わりに佑輔の父に手渡した。一冊の本だ。
「これまで科学雑誌に書き散らして来た原稿を、このたびまとめて出版する運びになりましてね。ヒマ潰しにでもしてください」
弘人は照れ臭そうに頭を掻いた。
「そんな、お父さん。興味ないひとには拷問でしかないようなものを」と郁也が慌てて弘人を止めた。
「無重力空間での植物」だなんて。佑輔の父は「病院ではいつもヒマを持て余して困るから」と郁也ににっこり笑って、弘人に礼を言った。
淳子は離れたところからその様子を嬉しそうに眺めている。
先ずは瀬川家が、家族写真に収まった。
「それ、カッコいいね」
郁也が佑輔のスーツを指して褒めた。就職祝いに淳子が佑輔にプレゼントしたものだ。濃色のグレイによくよく見ないと分からない水色の細い縞が入って、目立たないがお洒落なものだ。それに合わせた明るい青のネクタイ。淳子のコーディネイトだ。
「へへ。いいだろ」
「うん」
郁也も一緒に淳子に見立てて貰った新品のスーツを着てやって来ていた。郁也の方は緑がかった濃い茶色のチェック。肉の薄い郁也のために今回も三つ釦に仕立ててある。それに光沢のある薄い空色のネクタイを締めて、すっかり男のコの扮装だ。
「何か、こういうきっちりした格好するのに、男のコヴァージョンなのって久し振りだ」
「あははは」
スーツはバイトで着てたけど、下はスカートだったからな、と郁也は小さく呟いた。
郁也はあのあと、ママのところへ謝りに行った。謝って済む話ではないが、気持ちとして一度詫びずにはおれなかったのだ。
郁也の顔を見ると、ママは飢えた熊のような勢いで叱りに来た。
(あんた、金が要るんじゃなかったの。どうしたんだよ)
郁也は脅えながらも「親に借りて工面した」と白状した。ママは大袈裟に溜息を吐いて、(頼る親がいるんなら、どうして先にそっちへ行かないんだい)と郁也を睨んだ。
(「彼」のプライドが)
(「プライド」だ? 自分のオンナに身体を売らせて、何のプライドだい。そんな生活百年早いんだよ)
郁也が小さくなっていると、ママは煙草に火を点け、大きく煙を吸い込んだ。そしてそれをゆっくりと吐いて、懐から封筒を取り出した。
(ほれ。あんたの取り分だ)
ママはそれを郁也の前に抛って寄越した。郁也が首を傾げていると、がはっと笑ってママは言った。
(今度はアタシの勝ちさ。「先生」からたんまりせしめたからね。ちょいとお裾分けだよ)
郁也がぽかんと封筒を眺めていると、ママは(鈍いコだ)というように首を振った。
(前回とは逆に張ったのさ。今回、先生はアンタが金で転ぶ方に、アタシはそうじゃない方にね。あの男、「前例があるから」なんぞとほざきやがった)
ママはふうっと長く煙を吐いた。
(ま、何にせよ。よかったよ。アンタ、どう見てもこんな商売似合わないんだから)
郁也はそう引導を渡され、あの店を辞めざるを得なかった。以来、佑輔に我慢して貰い、家庭教師を数件抱えている。郁也が院に進学しても続けられそうな口もあり、収入は安定した。
(安心してよ。もうボクは、佑輔クンのものなんだから。ほかのひとには触らせたりしないんだから)
郁也が笑ってそう言うと、佑輔も照れ臭そうに笑って鼻の頭を掻いた。
「髪、伸びたな」
佑輔はそう言って郁也の耳許に指を遣った。郁也の耳朶を、首筋を撫でるように、その周りの髪をすっと掻いた。郁也は一瞬うっとりと瞼を伏せ、呟いた。
「最近まほちゃん、短く切ってくれないんだ。どうしてだろう」
父と母と、家族写真を撮った。三人で一緒の構図に収まるのは何年振りだろうか。
「さあね。あなたの七五三以来じゃない」と淳子はさらりと言った。隣で弘人が目を細める。美しい妻、愛らしい息子。彼の幸せがここにある。弘人は祝い事の白ネクタイ。淳子は何と留袖だった。
「淳子サン、留袖なんて持ってたっけ」と郁也が驚くと、淳子は「最近作ったの」と丸い目をくるくる回した。いろいろ付き合いもあるのだろう。それにしても少し大袈裟じゃないかなと郁也は思った。淳子は黙って笑っていた。
さあ、次はボクらも記念に一緒に写る? 郁也はいたずらっぽくそう訊いた。
折角なら、キレイな格好で撮りたかったけど。まだ十六のキレイな頃、まほちゃんに「写真館で撮って貰おう」って言われてたのに、とうとうそれは実現しなかった。郁也はそれが少し残念だった。
郁也の言葉に、佑輔は一瞬口を噤んだ。何だろう、と郁也は訝った。
次の瞬間。
「ごめんごめん遅くなって。はい、いくちゃん、こっちの部屋へいらっしゃい」
写真館の入り口を、大きな声で騒がしく、真志穂がどやどやと上がり込んで来た。その後ろには大荷物を抱えて松山が続く。
「まほちゃん。お兄ちゃんも。一体どうしたって言うの」
郁也が目を丸くしていると、真志穂は「こんにちは。今日はよろしくお願いします。あ、おばさま、おじさま、ご機嫌よう。お久し振りです」などと周囲に愛想を振り撒きつつ突進して来る。郁也は驚いた。これが数年も引き籠もっていた過去のある人間だろうか。
「おい、何をぼうっと突っ立ってる。お前の支度をするってんだよ」
松山に頭をはたかれ、郁也は言い返す間もなく「いいから来い」と奥の部屋へ連れ込まれた。
一陣の突風のような彼らに、佑輔の家族は呆然と立ち尽くしていた。佑輔は笑顔で控え室への扉を開けた。
「忙しいとこ済まんけど、まあ、こっちで休んでいてよ。どっちにしろ、今日は時間取ってくれてるんだろ」
「一体何でしょうねえ。息子とは言え、最近の子の考えることは、よく分かりませんよ」と佑輔の母。淳子は「ふふふ。でも、あのコたちのことだから、きっと素敵なサプライズを用意してくれてるんじゃありません? 楽しみだわ」とくすくす笑う。
離れた椅子で佑輔が、落ち付かなげに身体を揺する。
その様子を、面立ちのよく似た彼の父が怪訝そうに眺めていた。
「これ、佑くんとあたしからのプレゼントだよ」
真志穂は松山に指示して、大きな包みを開けさせた。そこから出て来たのは。
デコルテの大きく開いたその胸にシルクの薔薇が幾つも咲いて、光沢のある布が幾重にも重なりゆるやかに流れる、白い、ドレス。
純白の婚礼衣装だった。
「まほ、ちゃん。これ……」
あの日、真志穂がギャラの一部として貰ったチケットで、郁也が身に付けて写真を撮ったあのときのドレスがそこにあった。
真志穂の友人のデザイナーは、「任せてよ。あたしもプロだからね」と、記憶していた郁也のサイズと打ったピンで、同じデザインで作ってくれたのだ。
「いつの間に……」
郁也はもう、声が出ない。
「さあ、花嫁さん。お支度しましょうね」
大きく胸をはだかれて作り込まれた郁也の肌は、幸せにきらめいていた。
松山を部屋の隅へ追い遣り、写真館の女のひとが手伝って、真志穂は郁也にドレスを着付けてくれた。これは借りもの、と笑って真志穂がティアラとネックレスを付けてくれた。
「ほら、暁憲。出来たよ」
真志穂が松山に声を掛けると、弾かれたように松山は立ち上がり、ふたりの前の扉を恭しく開いた。
「さあ、お姫さま。どうぞ」
ふざけた調子で松山は言い、「おい、出来たぞ」と控え室の佑輔に声を掛けた。
(え。やだ)
郁也はこの場から逃げ出したくなった。
この姿を、見られてしまうなんて。
浅ましくて滑稽な、ボクの姿を。でも。
……もう、いいか。
ボク、佑輔クンのお嫁さんになるんだ。浅ましくっても、滑稽でも、佑輔クンになら、知られてもいい。佑輔クン本人がそれを望んでいるんだもの。
佑輔は「自分が嫁でもいいんだけど」と言っていた。替わってあげても、いいなと郁也は思った。案外、それも可愛いかも。くすっと笑った郁也の許へ、佑輔は飛んで来た。
「郁……」
ボクに黙ってこんなことを。まほちゃんとこっそり相談したの? ふたりとも、仲良くなったんだね。よかった。まほちゃんはボクの大事なお姉さんだから、ふたりが仲良くなってくれると安心だな。
「佑輔クン。ボク……、ボク、変じゃない?」
「変じゃないさ。キレイだよ。さ、行こう」
最初のコメントを投稿しよう!