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3、楽園の扉、漏れ来る光-3
ひとに言えないこと。
烏飼はそう言った。
確かにそうだ。
(ボクらはボクらのこと、気軽にひとに喋ったりしない)
郁也には従姉の真志穂もいるし、初めて出来た女のコの友人である佳織もいる。東栄学院で一緒だった松山や矢口も、郁也のよき理解者だ。真剣に話せば分かってくれるひとも世の中にはいる。郁也はそう知ることが出来た。
小学校時代、周囲の子どもたちのみならず、教員にまで嫌悪された日々を送り、そこから逃れたくて入った私立の名門校。そこで郁也は「敵」とならないひとびとに出会った。
だが、プライベートのことを理解し合うまでに至らない「知り合い」たちに、郁也は決して自分のことを話しはしない。当然だ。会うひとごとに自分の今付き合っている相手のことを自慢げに話したりする奴はそういない。しかし何気ない世間話はときおり、郁也を息苦しい気持ちにさせる。
(谷口先生って、今付き合ってる彼女いるの?)
バイト先の予備校などで、挨拶を交わすようになった相手からしばしば受ける質問だ。「いない」と答えると、(じゃあ、どんな女性が好みなの?)などと訊かれ、ひどいときは合コンの誘いなどを受けてしまう。
学院時代、郁也は仲間内でのそうした会話対策に、答える内容を決めていた。好きなタイプはこんな女性で、芸能人でいうと誰々でと。
面倒になって最近、郁也はまた答えを用意した。曰く、「ずっと一緒に住んでいるひとがいるが、事情があって次のステップに踏み出すのはいつになるか分からない」だ。この「事情」のところで郁也の長い睫毛を伏せると、大抵相手は押し黙る。便利だった。
この解答を何度か使ううちに、郁也は気付いた。
(考えて見れば、そのまんまじゃないか)
用意した答え、というには当たらない。事実そのままだった。郁也は少し悲しく思った。
男性であると信じられる郁也。その彼が付き合う相手は疑うこともなく常に女性で、女性と真面目な交際をすれば、いつか結婚という次の段階が来る。常識に則った当然の会話の流れだ。
常識なんて糞喰らえ!
そうした普通の会話がどんなに郁也を傷付るか、ひとは決して知ることがない。男のコのまま生きること。それを選択したときから、郁也はそれを覚悟しなくてはならない。
佑輔はどうだろう。
佑輔は郁也には嘘を吐けない。郁也がじっと目を見ると、どんな方便も佑輔の口からは出て来ない。
では世間に対しては?
郁也がそうした答えを捏造するのと同じように、佑輔にも決まった答えがあるのだろうか。
松山や矢口と会うとき以外、郁也には佑輔と一緒にひとの輪の中へ入る機会はない。普通のカップルのように、ユニットとして新たな人間関係の中へ組み込まれることはないし、ただの友人として共通の知人たちと付き合うこともない。学部も違うし、バイト先も別々だ。だから佑輔がそういう会話をどうかわすか、郁也が耳にすることはない。
このひとは、ボクのことをどう隠しているのだろう。
郁也は自動車学校のパンフレットを捲る、佑輔の横顔をじっと眺めた。
「ん? どうした。何か付いてるか」
佑輔は郁也の視線の先をこすった。郁也はふっと笑い首を振った。
「ううん、何も。……ボクも免許取ろうかな」
郁也は佑輔の手許を覗き込んだ。清潔な設備の写真。指導員の明るい笑顔。集中すれば短期間で終了するとある。
「学生のうちに取っとくといいぞ。卒業したあとだと何かと忙しくって、時間取れないかも知れないからな。一緒に通おうか」
佑輔と一緒に行動出来る。待ち合わせて、隣に座って、揃ってこの部屋に帰って来る。郁也の頬はふっと上気した。
「……うん。いいね。そうする。あ、でも、そろそろ本格的に卒業研究が始まるから、実験実験で身動き取れないかも。ボクんとこ、とにかく反応時間長いから」
佑輔は郁也を覗き込んだ。
「じゃ、それが終わった頃な。年内には終わるんだろ」
「多分。少なくとも、実験は片が付いてないとマズイ」
「ようし」
佑輔は費用捻出の計算を始めた。
「夏休みには少しまとまった額を稼いで来れば・・・・・・」
計算なんて得意な癖に、故意と指折り数える佑輔の背に、郁也はそっと身体を寄せた。
「郁……?」
温かい。硬い骨がごつごつと郁也の頬に当たる。無駄肉のない引き締まった身体。郁也はその感触に目を閉じた。佑輔がパンフレットを手から放した。
「郁」
佑輔が郁也の耳にその名を優しく吹き込むたびに、郁也の楽園は扉を開く。そこから漏れ来る眩い光に、郁也の意識は霞んでしまう。
(佑輔クン……)
ボクは何て幸せなんだ。
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