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3、楽園の扉、漏れ来る光-4
佑輔の夜のバイトは始まった。帰りは夜中の一時を過ぎる。待っていられず郁也は先に布団に入る。
卒業研究の段取りが決まった。指導教官の都合で決められたテーマの候補から、結論を引き出しやすそうなものをチームで選んだ。
或る高分子化合物を合成するのだが、現在よく使われる経路とは異なる製法をテストして、郁也たちの立てた仮定(正確には指導教官の目論見)を検証する。高価な触媒を使わない分時間が掛かり、一本の合成に見込まれる時間は優に四十五時間。三日掛かりの実験だ。
郁也たち六人のチームが三交代で大学に詰める。松山が言った。
「こいつ身体あんまり丈夫じゃないからさ。代わりに俺、深夜番やるわ」
郁也は松山に感謝した。お礼に夜食を差し入れると言った郁也に、自分は夜に強いからと平然と答えた松山は、そう言いながらも嬉しそうだった。
実験は週に一本実施することになった。月曜日に準備するところから始めると、最終生成物の分析と実験結果の検討が終わるのが金曜日。少なくとも土日は休める見当だ。
来週からその研究に取り掛かるという或る夜、郁也は佳織と矢口の店へ顔を出した。
矢口が黒字化したと言っていた店。郁也たちが大学に進学した頃、そこへは頻繁に行ったものだった。そこでの飲食は概ね矢口の驕りだったからだ。
業態転換して黒字化したとの矢口の言葉通り、雑居ビルをエレベーターで五階へ上がるとひとの気配が満ちていた。佳織が歓声を上げた。広いフロアの中央部には、大きな水槽に大小色取り取りの魚が揺らめいていた。
活魚が売りの店らしい。メニューには、どうせ生け簀を置くのならお客さまにも楽しんで頂こうと、とある。
嘘か本当か知らないが、中央のひと際目立つ水槽からは注文があっても、そうおいそれとは取り出せなかろうと郁也は思った。そこは見せ筋なのかライトアップがなされ、やや暗めの店内には水槽からのブルーの光が静かな雰囲気を醸していた。
ちょっとした非日常感と、水族館にデートに来たような祭事感。
「矢口くんって、やっぱり遣り手ねえ」と佳織が感心した。
ふたりに気付いて店長が席までやって来た。このひとは赤字時代のままだった。
「社長も前はよく顔を出してたんですけどね。お蔭さまでここが軌道に乗ると、ほかに掛かり切っちゃって」
店長は済まなそうに頭を下げた。郁也は構わなかった。別に矢口に会いたくてこの店に来たのではなかった。だが佳織は違ったようだ。
「何だあ。矢口くん、来ないのかあ」
郁也は佳織の表情に落胆を感じ取った。このコはひょっとして。
言葉少なにグラスを交わし、ふたりは徐に魚料理を摘み始めた。取り留めのない幾つかの会話のあと、佳織が言った。
「あたし、田端くんと付き合うかも知れない」
郁也は眉を上げた。
田端の真っ直ぐな前髪を思い出す。それは黒縁眼鏡の上で自然に分かれ、眼鏡の奥には真面目そうな瞳。あの日、郁也の呼び掛けに田端は涙を堪えていた。専門が離れ、今ではその姿を見掛けることはあまりない。
「ふうん。いいんじゃない」
彼、いいひとだよ。そう郁也は言った。田端の優しさ、気遣いは郁也にとっても印象深い。郁也への想いを断ち切れず、B大への進学を棒に振って郁也と同じH大を選んだ田端。郁也には佑輔がいると、既に知っていたにも関わらず。
「ふふっ。いくちゃんに振られた同士でね」
(かおりちゃん)
郁也は口の中で呟いた。
「……知ってたの」
聞いちゃったんだ、田端くんに。佳織は言った。
「しばらく前に。いくちゃんを忘れようと、彼、何人かの女のひとと付き合ったみたいよ」
精一杯つんとプライド高そうな癖に、いつも泣きべそかく寸前みたいな顔してるヤツ。田端は佳織にそう言った。そんなコばっかり、目に入るんだよな、と。
彼、本当に可愛くて。引っ込み思案でいつも下向いてるんだけど、俺が見てると不思議と思い詰めたようにどこかをじっと見てるんだ。
何見てるんだろう、そう、思ってさ。
そのうちに分かって来たよ。谷口が見てるのが何だったか。
仲、いいよな、あのふたり。
このままじゃ駄目だと思って、俺、谷口に引導を渡して貰ったんだ。
それから何人かの女と付き合ったけど、気が付いたらどいつもみんな似てた。つんと淋しい目をした女のコ。それがさあ、女でそういうヤツって、例外なく見たまんまの性格してて。ロクなコがいなかったよ。もう懲りた。
そんな経験したからさ、俺、橋本さんの良さが分かるんだ。
「あのひととなら上手くやれるかな。そんな風に考える自分がいるの。田端くん、優しそうだし、無理強いしないで待っててくれそうじゃない」
佳織は焦っているのだろうか。郁也は訊いた。
「好きになれそう?」
「分かんない」
佳織は俯いた。
「もうずっと、自分から『好きだな』って思えるひとに巡り会わない。そういう気持ち、遣い果たしちゃったのかも知れない。だから誰かと深く付き合えば、もしかしてそういう気持ちがまた湧き出てくるんじゃないかって」
「愛の欠落をセックスの快楽で埋めるってこと?」
佳織は顔を真っ赤にして郁也を睨み付けた。
「い、幾らいくちゃんでも、言っていいことと悪いことがあるよ」
郁也は涼しい顔でグラスを上げた。
「じゃあ言って上げるけど、快楽なんて初めから簡単に得られるものじゃないよ。苦痛をこらえ、訓練を重ねることでようやくそこへ到達するんだ。道の険しさはひとそれぞれだと思うけど、恋愛感情と引き替えにしようと考えてるんなら、トレーニングはハードなものになるよ」
それでもいいの。郁也は皮肉めいた顔で笑った。
佳織の目が潤んでいる。郁也は言った。
「かおりちゃん、何を焦ってるの。身体の感覚があってもなくても、人生の本筋に大きな影響はないんだよ。それを早く経験したからって人生薔薇色になる訳じゃない。女のコにとってそれは大きな意味を持つだろう? だから慎重過ぎるほど慎重なくらいで丁度いいんじゃないかって、ボクは思うよ」
真志穂が言っていた「三位一体イデオロギー」のヴァリエーションだ。恋愛をして性交をして、それによって人並みのハッピーが得られる。そうした強迫が世の中を席巻している。
確かに誰かと愛し合い、抱き合うことはひとの心を豊かにする。楽園の光は郁也に真理の一端を垣間見せた。だが心情的なものはともかく、行為はリスクが伴うものだ。無理が見合うものではない。
「やあ、今日は女子会かい?」
背後から快活な声がした。矢口だった。
「矢口君。どうしてここへ」
驚く郁也に、にっと笑って矢口は言った。
「君らが来てるって、店長からメール貰ってさ。丁度今夜は切り上げようと思ってたとこだったから、取り敢えず顔見ようと思って。谷口にはこの間会ったけど、佳織姫は久々だしな」
矢口がそう佳織の方へ笑い掛けると、佳織は何やらもごもご言って目を伏せた。
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