1、純白の婚礼衣装に包まれて-2

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1、純白の婚礼衣装に包まれて-2

 日を改めて休日の午後、ひとで混み合う市街中心部、百貨店やファッションビルの並ぶ街区の端に、郁也は真志穂と向かっていた。  今日は佳織は来なかった。何やら用事があるそうだ。郁也は丁度よかったと思った。これから自分のすることを、女性の友人には見せたくなかった。  それは郁也の暗い屈折か、悲しいプライドなのか。 「このビルだよ」  真志穂が先に立ってずんずん入って行く。郁也は黙って後に続いた。 「こんにちはー」  三階の明るいドアを押し開けると、小柄な女性が笑顔を見せた。 「ああ、いらっしゃい。先日はありがとうね」  郁也は彼女に見覚えがあった。先日の四人のデザイナーのうちのひとりだ。このひとのドレスは純白で、ミニ丈ながらも気品があって、郁也は一番好きだった。  ひとしきり真志穂と先日のショーの興奮を語り合ったあと、そのひとは真志穂の後ろに隠れるように付いて来た郁也に目を向けた。 「あれ、真志穂ちゃん、このひと……?」  冷やかすように真志穂を肘で突っついたそのひとに、真志穂は表情を改めた。 「違うのよ、芹ちゃん。今日お願いしたいのはこのコなの」  あたしの従弟なんだけど、キレイでしょ。そう言い切った真志穂の口調には、説得するような粘り強さがあった。芹ちゃんと呼ばれたデザイナーの卵の目が好奇にくるくると回る。郁也はすらっと形のいい身体を小さく縮込めた。 「ずっと写真撮ろう撮ろうって言って、なかなか機会がなくってね。折角チケット頂いたから、使わせて貰おうと思って。よろしくね」  真志穂は真剣な光をその目に宿して、友人にそう頼んだ。 「……分かった。任せて頂戴」  真志穂がギャラの代わりに貰ったものは、この友人の勤めるウェディングドレス専門店の、試着券だった。好きな貸衣装を身に付け、写真を撮って貰うというセットだ。 「ヘアメイクはあたしがするから」 「オーケー」  郁也は衣装部屋に通された。真志穂と一緒に見て回る。真志穂が一枚を選び出した。 「いくちゃん胸ないから、胸許にこういう飾りのあるデザインが可愛いよ」  真志穂の手には、胸に大きなリボンの付いたひらひらと可愛らしい衣装があった。裾丈はやや短め。婚礼衣装というよりはロリータっぽい遊び着に近い。 「まほちゃんて、そういうの好きだよね」  真志穂が郁也に着せたがる服。清潔な少女の装いや透明な妖精のイメージを、真志穂は郁也の上に重ねたがる。それは郁也が成人してからもちっとも変わらない。 「こんなのはどう」と芹ちゃんこと芹沢が郁也に優しく声を掛け、デコルテの大きく開いたドレスを見せた。  オーソドックスな形ながら胸の処にはシルクサテンの白い薔薇が幾つも付いて、お誕生日のケーキの上に乗ったクリームの花のようだった。郁也は自分の細い指をそっとその花飾りに触れさせた。 「気に入った?」  芹沢は無口な郁也ににっこり笑ってそう尋ねた。  郁也は真志穂の顔を見た。真志穂も「うん。いいんじゃない」と頷いた。郁也は自分の頸の辺りをそっと押さえて目を伏せた。 「こんなに胸が開いて、鎖骨のごついの目立たない?」  真志穂はあははと笑って郁也の肩を叩いた。 「これのどこがごついのよ。あたしよりよっぽど華奢な癖に」  芹沢がごそごそともう一枚持って来た。 「もし気になるなら、こういう首許まで隠れるデザインもありますよ」  胸に飾りはあるが、デコルテはレースで覆われハイネックになったデザイン。郁也は半歩下がって眺めて見たが、遠慮がちに先のドレスを摘んで言った。 「……やっぱり、こっちの方がいい」  真志穂は「いくちゃん今日は随分おとなしいねえ」と揶揄うようにそう言った。 「そう、かな」 「そうだよ」  口では軽口を叩きながら、真志穂はてきぱきと作業を進めた。郁也の髪をダッカ―ルで留め、さらさらとひんやりした何かを郁也の頬に塗り込んだ。 「緊張してるのかな」 「別に。そんなこともないけど」  真志穂は大きめの刷毛を取り出した。今日は写真室で照明を当てての撮影になる。肌色が飛んじゃうといけないので、ごめんね、ちょっとしっかり塗るからね、と真志穂は言った。  真志穂の刷毛が郁也の額を、頬を、頸を撫でる。その冷たい感触に、郁也は目を閉じ身を反らせた。郁也の唇からふっと息が漏れる。  真志穂が言った。 「いくちゃん、結婚願望強いもんね」 「え」  郁也は目を見開いて、鏡に写る従姉を見た。真志穂は鏡越しに笑っている。  結婚願望?  「何それ。そんなの、ボクにあるって言うの」 「あるじゃない。いつもそういう話には喰い付いて来るでしょう。真梨絵のときだって。いくちゃん、自分で気付いてないの?」  真志穂の姉、真梨絵は二十一のときに結婚した。普段は愛想のないこの従姉が、式のときに見せたはにかむような幸せな笑顔を、郁也は覚えていた。 「はい、出来ました」  真志穂にポンと背を叩かれ、郁也は化粧前のスツールから立ち上がった。人工的に作り込まれた肌色に大袈裟な頬紅とアイライン。いつも真志穂が郁也に施すものとはかなり異なる。  次は衣装だ。芹沢の指示通り足を上げ腕を挙げして郁也の身体に白いドレスが装着されてゆく。絹の肌触り。揺れる布。  芹沢は写真に写らない郁也の背側を、幾つもピンで留めて調整した。郁也の肩幅とウエストに合わせると、部分的にダブつく処が出るのだと言う。  あとは靴を履きティアラを付けて完成だ。 「靴はちょっと……」  サイズがないという芹沢に、真志穂は郁也の持参の箱を開けた。郁也が生まれて初めて自分で買った白いパンプス。忘れもしない、十六の夏だ。  十六の夏。  思い出すと、今でも郁也の胸は震える。  あんなに苦しくて、あんなに嬉しくて、あんなに悲しい、幸せな記憶。  あの年、郁也は一度死んだのだった。  いつも脅えて膝を抱えうずくまるしかなかった郁也は、死んで新たに生まれ変わった。どの選択肢も選べずに泣いてばかりいた郁也は、目の前に現れた光をその手に掴んだ。  それまで思いつきもしなかった選択。願うことすら自分に禁じていた幸福。  あれから五年。郁也は二十一になった。 (まりちゃんが結婚したのは、今のボクの歳なのか……)  郁也は不思議に感じながら、持って来た自分の靴に足を入れた。  パシャッ。パシャッ。  眩しくて目を開いていられない。照明をまともに浴びて、それでも郁也はカメラマンの指示の通りに笑っていた。五センチのヒールのパンプスを履き、ドレスの長い裾を引き摺って、それでもモデルのようにすっすっと歩く郁也に芹沢は驚いた。 「最近、女のコでもヒールで真っ直ぐ歩けないコ多いのよ」  郁也にとって、五センチなどヒールの内にも入らない。そう言いたい処だが。 「ここんとこあんまり踵の高い靴履いてないから。このくらいがせいぜいかな」  長い裾を真志穂に持たれ、紅い唇を開いて答える郁也。その咽から出る声は、その姿とは不釣り合いに低い。  カメラテストのときのデジタル画像をその場で見せて貰った。斜め三十度の角度で、婚礼衣装に身を包みひとり微笑む郁也の姿があった。 「キレイねえ」  芹沢は溜息を漏らした。真志穂は満足して腕を組み、光の加減で飛んだ細部を確認した。自慢そうな真志穂の笑顔。自分の大切な宝物を褒められたのと、自分の技術を評価されたのと、どちらも最高に真志穂を得意にする。 「ほら、いくちゃん。ちゃんと見てる? どう?」  真志穂にそう促されても、郁也は何も言えなかった。ただ黙って口に手を当て、画像を見つめるのが精一杯だった。撮影用の化粧を落とした唇から、泣き声があふれてしまいそうだったからだ。  日々薄らいでゆく、美しい自分の姿。  十六をピークに、その変化は郁也には痛いほどよく分かっていた。  だが、モニターの中の郁也は、しっとりと幸せそうに微笑んでいる。  これから始まる愛するひととの生活を前に、その幸福を包んで揺れる、婚礼衣装の白い襞。  この世で自分が手にすることのない花嫁の幸福。  郁也の指が、唇が震えた。 「いくちゃん。いくちゃん、大丈夫?」  真志穂がそっと肩を抱いてくれた。郁也は無言で何度か首を振った。モニターの画像が滲んだ。郁也はもう堪えられず、従姉の肩に額を付けて、声を殺して涙を流した。 「……気持ち悪い」 「え?」  怪訝そうな真志穂に、郁也はしゃくり上げて無理矢理笑った。 「どうしてボクの身体にそんなものが入っている訳? 滑稽にも程があるよ。結婚願望だなんて」  馬鹿馬鹿しい。郁也はそう吐き捨てた筈だった。  なのに。  自分の発した言葉にこもる悲しい響きは、いつまでも郁也の耳に残った。
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