8、ボクの全てを、あなたに上げる-2

1/1
前へ
/52ページ
次へ

8、ボクの全てを、あなたに上げる-2

 佑輔クン。  佑輔クン。ボク、生まれて来てよかったって、心の底からそう思ったんだ。  そんな日が、ボクの許にも来るなんて。  そんなこと、絶対ないって思ってたのに。 「普通のことやってて、そんな金手に入る訳ないってのは、分かってんだろうね」  佑輔クンが、あの日、あの時、ボクに言ってくれた言葉、してくれたコト。  それらの全てが、今のボクを作ってる。  ボクの身体に満ちているよ。 「はん、あんたにそんなことが出来るんならね」  佑輔クン。  ……愛してる。  あなたのお蔭で、ボク、人間になれた。  ひとをひととして大切に出来る、本当の人間になれたんだ。 「……よし。分かったよ。ちょっと待っておいで」  ありがとう。  ありがとう佑輔クン。  佑輔クンに貰った沢山のもの。ボク、一生掛かっても、そのほんの少しも返せない。だから。  だからボクは、ママの差し出した名刺を受け取った。  天使はどこにも見当たらない。  佑輔の許でいつも翼を休める彼の天使。  その羽ばたき。その吐息。  天使はその淋しい笑顔を、佑輔の腕の中で安堵に変える。  いつの間にか、天使の安堵の表情に縋っていたのは佑輔だった。天使が側にいなくては、帰った部屋に天使の微笑みがなくては、佑輔は生きられなくなっていた。  それに気が付くことはなかった。いつも天使はこの部屋で、佑輔の帰りを待っていたからだ。佑輔が天使を待つ日でも、天使は必ず戻って来た。一日中ひとめを避けてきつく畳んだその羽を、佑輔の胸の中で解き、自由にした。いつも。  いつも。これまでは。  佑輔は血の気を失ったまま、思い付く全てを探した。気紛れに、天使が羽を休ませそうな処全てを。  だが、佑輔は知っていた。  郁也に、羽を休ませる処などどこにもないことを。  自分と暮らすこの部屋以外に。  いつもより粉をしっかり付け、至近距離からの視線に耐えるコーティングをする。  代わりにアイラインはナチュラルに。近くから見て不自然さが少ないように。  口紅もソフトなオレンジベージュ。はたちを過ぎて、肌の色が変化したのか、最近はこうした黄味のある色も似合う。  キレイなかたち。  間近に見てもキレイな仕上がり。  間近に見ても。 「うっ」  郁也の肩が大きく上下した。  紅筆が震えて作業出来ない。  郁也は大きく深呼吸した。  考えちゃ駄目。駄目。駄目。考えない。考えない。 (ふー)  こういうときに、真志穂に教えて貰った綿棒のテクニックが役に立つ。濡らした綿棒で部分の崩れはさっとリタッチだ。粉で押さえればもう大丈夫。  仕上げにはいつもより念入りにグロスを乗せる。こってり光った唇を少し考えてティッシュで押さえた。見るひとに不快感を与えないように。  誰、に。  佑輔にでないことは確かだ。郁也の肩がまた震えた。 (考えちゃ駄目だって。何度も言ってるでしょ)  有名ホテルのトイレに籠もって、郁也は自分を造形していく。パウダースペースで化粧を終えると、次は更衣スペースだ。  個室の鍵を掛け、持参のバッグに収められた衣装を身に付ける。普段バイトでしている早変わり。今日はいつもより時間に余裕がある。その分念入りに、細かい処まで気を入れることが出来る。  女子トイレから出て行く処を誰かに見られても、何の違和感も与えない仕上がり。当然のことだ。いつもそうしている。いつもと違うのは。  駄目。深呼吸。深呼吸。  郁也は自分の仕上がりを鏡でじっくり確認すると、荷物を抱えてロビーへ出た。クロークへ向かい掛けたが、考え直して外へ出た。荷物は駅のコインロッカーに預けることにする。  コインロッカーに大きなバッグを押し込んで、郁也は駅の時計を見た。  さっき着替えに遣わせて貰ったホテルよりも、数段格式の高い処。  郁也は細い腰を優雅に動かし、硬質な靴音を立ててそこへ向かった。 「フォンテーヌ」の入り口で。  ママがまた野太い声を上げている。 「何度言ったら分かるんだい。ここはあんたなんかの来る処じゃないよ」 「ママ。今日は俺、あんたと遊んでる暇はないんだ」  ひとりの若い男が叩き出されそうになりながら、果敢にママに喰い下がっていた。 「花蓮、今日は出番じゃないよな。どこにいるかママ、知ってるんだろ」 「休みのコのことなんて、あたしの知ったことかい」  男は一段と声を低めてママの耳許に言った。 「彼氏が、探し回ってる。……半狂乱だ」  ママはそこで初めて男の顔を見た。いかついママと向き合って、烏飼は一歩も退かない構えを見せた。 「知ってるんだな、ママ」  ママは数歩下がって店内へ戻った。烏飼も続く。ママは大きく肩で息をした。 「遅かったね」  ママは和服の袖を持ち上げた。きらびやかな宝石に埋もれた文字盤に目を遣り「今頃はもう着いてる頃さ」と吐き捨てた。  烏飼の顔色が変わる。 「どういうことだ、ママ!」 「はん! 何が『半狂乱』だい」  ママはその野太い声を更に荒げて烏飼を睨んだ。 「遅いんだよ。何だい、いつも『金』『金』『金』って。エリートのあの坊ちゃんが、男に酌をしてまで稼いだ金を、あのコが自分で遣ってるのを見たことがないよ。今度のことだって」  ママは厚い唇をへの字に曲げた。 「ロクでもない若造なんて、離れられるなら離れたらいい。今度のことがいい機会になるだろうさ」  あたしの手持ちのカードの中で、一番の上物をあのコにくれたよ。そう言ってママは懐から煙草を一本取り出した。烏飼はそれに火を点けて遣った。 「ママ……」 「自分でも不思議だよ。あのコにどうしてここまでして遣るのか、さっぱりだ。桔梗は『あんたの若い頃にそっくり』って笑うけど」  ママは煙をふうっと大きく吐き出した。 「そうだね。可愛かったあたしをこんなにした張本人のところへ、あのコをやっちまうなんて。これはあたしの復讐かしらね」  烏飼は優雅に煙草を燻らせるママの口許を睨んだ。 「恨むよママ。あのコが、あんなに幸せに笑ってたあのコが、壊れちまいでもしようものなら」 「じゃ、あんたが用立てて遣ればよかったんだよ、金くらい。あとからガタガタ言ってないでさ。随分貯め込んでんだろ」  烏飼は唇を嚙み締めた。 「真っ先に俺のとこに駆け込んでくれりゃな」 「はは。あんたの汚い金には頼りたくなかったんだ」  烏飼は今度こそ怒りに燃えた目をママに向けた。口を開き掛けたが、首を横に振り、烏飼はそのまま出て行った。険しい足音を響かせて。
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!

71人が本棚に入れています
本棚に追加