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8、ボクの全てを、あなたに上げる-2
佑輔クン。
佑輔クン。ボク、生まれて来てよかったって、心の底からそう思ったんだ。
そんな日が、ボクの許にも来るなんて。
そんなこと、絶対ないって思ってたのに。
「普通のことやってて、そんな金手に入る訳ないってのは、分かってんだろうね」
佑輔クンが、あの日、あの時、ボクに言ってくれた言葉、してくれたコト。
それらの全てが、今のボクを作ってる。
ボクの身体に満ちているよ。
「はん、あんたにそんなことが出来るんならね」
佑輔クン。
……愛してる。
あなたのお蔭で、ボク、人間になれた。
ひとをひととして大切に出来る、本当の人間になれたんだ。
「……よし。分かったよ。ちょっと待っておいで」
ありがとう。
ありがとう佑輔クン。
佑輔クンに貰った沢山のもの。ボク、一生掛かっても、そのほんの少しも返せない。だから。
だからボクは、ママの差し出した名刺を受け取った。
天使はどこにも見当たらない。
佑輔の許でいつも翼を休める彼の天使。
その羽ばたき。その吐息。
天使はその淋しい笑顔を、佑輔の腕の中で安堵に変える。
いつの間にか、天使の安堵の表情に縋っていたのは佑輔だった。天使が側にいなくては、帰った部屋に天使の微笑みがなくては、佑輔は生きられなくなっていた。
それに気が付くことはなかった。いつも天使はこの部屋で、佑輔の帰りを待っていたからだ。佑輔が天使を待つ日でも、天使は必ず戻って来た。一日中ひとめを避けてきつく畳んだその羽を、佑輔の胸の中で解き、自由にした。いつも。
いつも。これまでは。
佑輔は血の気を失ったまま、思い付く全てを探した。気紛れに、天使が羽を休ませそうな処全てを。
だが、佑輔は知っていた。
郁也に、羽を休ませる処などどこにもないことを。
自分と暮らすこの部屋以外に。
いつもより粉をしっかり付け、至近距離からの視線に耐えるコーティングをする。
代わりにアイラインはナチュラルに。近くから見て不自然さが少ないように。
口紅もソフトなオレンジベージュ。はたちを過ぎて、肌の色が変化したのか、最近はこうした黄味のある色も似合う。
キレイなかたち。
間近に見てもキレイな仕上がり。
間近に見ても。
「うっ」
郁也の肩が大きく上下した。
紅筆が震えて作業出来ない。
郁也は大きく深呼吸した。
考えちゃ駄目。駄目。駄目。考えない。考えない。
(ふー)
こういうときに、真志穂に教えて貰った綿棒のテクニックが役に立つ。濡らした綿棒で部分の崩れはさっとリタッチだ。粉で押さえればもう大丈夫。
仕上げにはいつもより念入りにグロスを乗せる。こってり光った唇を少し考えてティッシュで押さえた。見るひとに不快感を与えないように。
誰、に。
佑輔にでないことは確かだ。郁也の肩がまた震えた。
(考えちゃ駄目だって。何度も言ってるでしょ)
有名ホテルのトイレに籠もって、郁也は自分を造形していく。パウダースペースで化粧を終えると、次は更衣スペースだ。
個室の鍵を掛け、持参のバッグに収められた衣装を身に付ける。普段バイトでしている早変わり。今日はいつもより時間に余裕がある。その分念入りに、細かい処まで気を入れることが出来る。
女子トイレから出て行く処を誰かに見られても、何の違和感も与えない仕上がり。当然のことだ。いつもそうしている。いつもと違うのは。
駄目。深呼吸。深呼吸。
郁也は自分の仕上がりを鏡でじっくり確認すると、荷物を抱えてロビーへ出た。クロークへ向かい掛けたが、考え直して外へ出た。荷物は駅のコインロッカーに預けることにする。
コインロッカーに大きなバッグを押し込んで、郁也は駅の時計を見た。
さっき着替えに遣わせて貰ったホテルよりも、数段格式の高い処。
郁也は細い腰を優雅に動かし、硬質な靴音を立ててそこへ向かった。
「フォンテーヌ」の入り口で。
ママがまた野太い声を上げている。
「何度言ったら分かるんだい。ここはあんたなんかの来る処じゃないよ」
「ママ。今日は俺、あんたと遊んでる暇はないんだ」
ひとりの若い男が叩き出されそうになりながら、果敢にママに喰い下がっていた。
「花蓮、今日は出番じゃないよな。どこにいるかママ、知ってるんだろ」
「休みのコのことなんて、あたしの知ったことかい」
男は一段と声を低めてママの耳許に言った。
「彼氏が、探し回ってる。……半狂乱だ」
ママはそこで初めて男の顔を見た。いかついママと向き合って、烏飼は一歩も退かない構えを見せた。
「知ってるんだな、ママ」
ママは数歩下がって店内へ戻った。烏飼も続く。ママは大きく肩で息をした。
「遅かったね」
ママは和服の袖を持ち上げた。きらびやかな宝石に埋もれた文字盤に目を遣り「今頃はもう着いてる頃さ」と吐き捨てた。
烏飼の顔色が変わる。
「どういうことだ、ママ!」
「はん! 何が『半狂乱』だい」
ママはその野太い声を更に荒げて烏飼を睨んだ。
「遅いんだよ。何だい、いつも『金』『金』『金』って。エリートのあの坊ちゃんが、男に酌をしてまで稼いだ金を、あのコが自分で遣ってるのを見たことがないよ。今度のことだって」
ママは厚い唇をへの字に曲げた。
「ロクでもない若造なんて、離れられるなら離れたらいい。今度のことがいい機会になるだろうさ」
あたしの手持ちのカードの中で、一番の上物をあのコにくれたよ。そう言ってママは懐から煙草を一本取り出した。烏飼はそれに火を点けて遣った。
「ママ……」
「自分でも不思議だよ。あのコにどうしてここまでして遣るのか、さっぱりだ。桔梗は『あんたの若い頃にそっくり』って笑うけど」
ママは煙をふうっと大きく吐き出した。
「そうだね。可愛かったあたしをこんなにした張本人のところへ、あのコをやっちまうなんて。これはあたしの復讐かしらね」
烏飼は優雅に煙草を燻らせるママの口許を睨んだ。
「恨むよママ。あのコが、あんなに幸せに笑ってたあのコが、壊れちまいでもしようものなら」
「じゃ、あんたが用立てて遣ればよかったんだよ、金くらい。あとからガタガタ言ってないでさ。随分貯め込んでんだろ」
烏飼は唇を嚙み締めた。
「真っ先に俺のとこに駆け込んでくれりゃな」
「はは。あんたの汚い金には頼りたくなかったんだ」
烏飼は今度こそ怒りに燃えた目をママに向けた。口を開き掛けたが、首を横に振り、烏飼はそのまま出て行った。険しい足音を響かせて。
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