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8、ボクの全てを、あなたに上げる-3
名刺の裏に走り書かれたホテルのルームナンバー。郁也は何度も迷いながらそこを探し当てた。
ドアフォンを押す。オレンジベージュに塗られた爪が鈍く光った。間接照明がシックな廊下。絨毯の毛足に、ヒールに慣れた郁也も転びそうになる。
微かに中で声がした。「開いてるよ」と言われたような気がして、郁也は重い扉を開けた。
綺麗に掃除されながらもどこか雑然として見えるのは、きっと積み上げられた書籍のせいだろうと郁也は思った。
机の回りを沢山の本に占領されていても、部屋はまだたっぷりと余裕があった。郁也が視線を巡らせた先にゆったりとしたソファがでんと構えていた。その向こうの開いたままの寝室にはトランポリンのような大きなベッドがちらりと見えた。
「お前か」
そう声がして郁也はびくりとした。声の方に顔を向けるとソファに男が座っていた。ママのお客さん。「先生」だ。
「上手く化けたな」
低い声が嘲るようにそう言った。郁也はその言葉に死んでしまいそうな心地がした。小学校でいじめられた記憶が勢い良く飛び出して来る。お店でお客さんに浴びせられた罵声がまた郁也の胸に刺さり込んだ。
(まだだ)
郁也はごくりと唾を呑み込んだ。そうすることで、これまでの恐怖の記憶を、これから直面する筈の恐怖を、咽の奥へ呑み込んでしまおうとした。
(まだ死ねない。ボクにはまだすることがある)
これから自分がする筈のこと。それを思うと郁也の全身はがたがた震えた。
毛足の長い絨毯が、細い踵を意地悪く引っ掛けて郁也を転ばせようと待ち構えている。郁也のみっともない格好をあげつらおうと今か今かと待っている。
負けるものか。
本当の女のひとより、美しい外見でボクはここへやって来た。
誰にも負けない。ボクは、キレイだ。
光沢のある白のスーツに白のパンプス。清楚だがしっとりしたおとなの色香を漂わせる服装に、艶やかな真珠のネックレス。メイクもぎりぎり夜の華やかさを描いて見た。唇に合わせたオレンジベージュのエナメルを塗り込めた爪先が、郁也が何かするたびに煌めいた。
これは郁也であって郁也ではない。郁也の中の女のコはこんな扮装はしない。
それは社交の場で自分を高価いものに見せる、「女」を売りにするひとびとの技術だった。男の目に写る自分を高く見積もらせるための扮装だった。
そう。今夜郁也は自分を高く売りに出す積もりだ。
考えて考えて、郁也にはこれしかなかった。技術もない、能力もない、知識も財産も何もない。ただ両親の財力に甘えてのほほんと生きて来た自分は、いざと言うときに何をすることも出来ない下らない若造でしかなかった。あるのはこの身体だけ。あと何年持つか分からない、崩れかけた美貌を残した身体だけだった。なら。
なら。これを金に換える。
これしかないなら、選択の余地はない。
譬え好事家の情けに縋る滑稽な女装者と嗤われても。
グラスに氷が落とされる音がした。郁也はその音に「自分がしなきゃ」と反射的に思った。郁也はテーブルにボトルを探した。こくこくこく、と深みのある音がして郁也の手から琥珀色の液体がグラスの中へ注がれた。
先生はグラスをほんの数度傾けた。ちり、と氷が彼の手の中で鳴った。郁也はボトルを置くと、身体を硬くして数歩退がった。首筋の毛が痛いくらいちくちくした。
先生はグラスを持ったまま、離れた郁也に揶揄うような目を向けた。脅える獲物の、その脅えを楽しむようなその目付き。こんな馬鹿げた格好でのこのこやって来た、馬鹿な若者を蔑むようなその目付き。そして、そんな風にしか生きられない人間を、哀れむようなその瞳。
このひとは、ママとどんないきさつのあるひとなんだろう。頭の隅で郁也は思った。
お金が要るんです。切羽詰まって駆け込んだ郁也に、ママは烈火の如く怒り狂った。怒鳴られても詰られても、郁也は引き下がれなかった。
金を作らなければ、佑輔の一生は台無しになる。今月中には結論を、医師は家族にそう言った。佑輔が大学を卒業するには、今月中に授業料を払い込む必要があった。もうそう日がなかった。佑輔が馬鹿な結論に飛び付く前に自分が。
自分が何とかしなければならない。
いつか、自分の前に投げ出された札束。自分にはまだあの価値があるだろうか。
あれだけあれば。あれだけあれば佑輔は大学を辞めずに済む。卒業しさえすれば就職は決まっているのだ。何の心配もない。父の医療費くらいどうにでもなる。会社員のステータスがあれば、医療ローンだって組める。卒業さえすれば。
佑輔を卒業させる。他のことは何も考えなくていい。
とうとう郁也は先生を訪ねることを許された。遂に根負けしたママが、渋々この男に連絡を取ってくれたのだ。
明らかに定宿としているホテルの一室で。
郁也は男と無言で対峙していた。
話すことは何もない。甘い睦言を交わすこともない。これは郁也の愛した男とは違う。別の男だ。
無言のまま、長い時間が過ぎた。
睨み合うように向かい合った時は、前戯の一部と成り得るだろうか。
先生がグラスを置いた。
「脱げよ」
ひとことそう言って、先生は郁也を促した。郁也は微かに頷いて、スーツの釦に手を掛けた。
指が震える。
一番上の釦をやっと外し、次に掛かる。二番目は前よりもっと時間が掛かった。手が震えて上手く行かない。郁也は焦った。
どうしよう。どうしよう。外れない。外れない。もたつく自分の指が腹立たしい。こんなこと、こんなことで。
「うぅっ」
郁也の咽から呻きが漏れた。はたはた……と雫が床に落ちた。
頭の上から抑揚のない静かな声が降ってきた。
「お前の『不幸』に付き合ってやる」
郁也は涙に濡れた瞳を上げた。先生は膝の上で手を組んで、冷めた目で郁也を眺めていた。その目はさっきの獲物を観察するのとは違う、何かもっと苦々しいものを宿していた。
「下らん、ありふれた『不幸』だ。自分じゃ大層な悲劇と思ってるか知らんがな、そんなものは幾度となく繰り返された、手垢の付いた不幸に過ぎん」
先生は薄く笑った。追い詰められた郁也を嘲るように目を細めて、男は笑っていた。
「さあ、お前はどうする。お前は何をしにここへ来た? さっさと目的を果たしたらいい。俺はお前の不幸に付き合ってやるよ」
冷たい目付きとは裏腹に、その声は穏やかで温かかった。耳に届いた優しい響きに、郁也は眩暈がしそうになった。この声に、この穏やかさに抱かれるのも悪くない。そんな考えが頭をよぎった。
郁也はそのアイディアに縋ろうとした。それ以外を頭の中から追い出そうと、郁也は心からそう思おうとした。
(お前は何をしにここへ来た)
そうだ。ボクは、このひとと契約するために、金を得るためにここへ来た。するべきことを、ここでするんだ。震えている場合じゃない。泣いてなんかいられない。郁也は釦に掛ける指に再び力を入れた。
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