8、ボクの全てを、あなたに上げる-4

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8、ボクの全てを、あなたに上げる-4

 白いスーツの中身。それは貧相な男の身体だ。高価く見積もられるための外見は、一皮剥けば全てチャラだ。  郁也が夢見た、郁也が何度も嫉妬したまろやかな幸せのカーブ。柔らかい手触りのマシュマロの肌。そんなものは出て来ない。 (嫌だ)  この男はそんなことは百も承知だ。あのママの訳ありの男なのだ。だからこれは目の前のこの男のための躊躇いではない。郁也の拘りだ。  衣装の下から自分のごつごつあばらの浮いた、骨張った身体が出て来ることを怖れているのは郁也自身だ。今でも郁也はそれを乗り越えていなかった。既に納得済みの事項だと思っていたのに。  どうして納得しただなんて思ったのだろう。  何か優しく温かい感触が郁也の心に触れた。  生まれ持った郁也の困難を、もう困難としてではなく、恩寵として、幸運として包み込んだ優しいもの。それは郁也の生の根本をどっしり強固にした。  これで生きられる。ボクは生きていていいんだ。そう感じた喜びが郁也の胸のどこかに刻まれていた。  優しいもの。温かいもの。  郁也に幸せをくれたものがある。幸せだけではない。奇跡を、恩寵を、光を、全てをくれた。  数え切れない沢山のものを、あのひとはくれた。  あのひとのお蔭で今ボクは生きている。  あのひとがこれでいいと言ったこの身体。どんなに貧相でも、まろやかでも柔らかくもなく骨張っていても、ありたい形と異なっていても、彼の前ではそれでいいと思えた。安心して裸になれた。  男のひとの胸に飛び込むためのパスポートを持たない、男性型の滑稽な身体。それを他の男に見られる。他の男に触られ、自由にされる。何をされるか分からない。抵抗も出来ないまま、殺されるかも知れない。  他の男。「誰の」他? (嫌だ。嫌だ、嫌だ。イヤ――)  雨の中、郁也をそっと抱き締めてくれた優しい腕は。  短い時間でも、ふたりで過ごしたくて出掛けて行ったあの部屋は。  狭過ぎるベッドを避けて、床に延べた布団の中でじゃれ合ったあの身体は。  取り付けたばかりのカーテンを引いて、そのまま朝まで睦み合ったあのひとは。 (イヤ。佑輔クン!)  気が付くと、女物のスーツの釦に手を掛けたまま、郁也はその場で泣いていた。  苛つくような気配があって、押し殺した声が「泣くな」と言った。  郁也は声を止めようとした。だがどうしても止まらない。 「泣くな!」  低い声が鋭く言って、郁也は頬に殴られたような衝撃を感じた。滲んだ視界に何かが飛んだ。郁也の頬を殴って落ちた、その塊を郁也は見た。  床に札束が落ちていた。 「拾ったらいい」  先生は僅かに笑った。幼子をあやすような穏やかで優しい声だった。  耳触りのいい深みのある温かな声。この声に、この温かさに包まれる。それは心地のよい瞬間かも知れない。おとなの男性に芯から甘やかされてみるのも、悪くない。  無理にでもそう思おうとしながら、郁也の涙は止まらなかった。身体の芯を凍えさせる寒気に、がたがた震えが止まらなかった。 「お前のものだよ」  金。  佑輔の一生を救うのに充分な、金。  銀行の帯封もそのままに、床に転がる四角い束。  涙で滲んだ視界の中で、郁也の指は震えながら、床へ伸びた。  あんた、あの天使を愛しているかい。 「ああ。勿論だ」  烏飼は電話の向こうで、一瞬躊躇ったのち、佑輔にこう言った。  ならさ、天使がどんなに傷付いても、変わらず愛して遣れるかい。  佑輔は息を呑んだ。  姿形がどんなに変わっても、郁は郁だ。俺にはそんなこと、大したことじゃない。同じクラスの谷口を好きになってしまった。そのことが大問題だったのだから。それさえ乗り越えれば、あとはもう、大したことじゃないんだ。  佑輔はいつか郁也にそう言って笑った。  あれはいつのことだったか。  成長して、すっかり大人の男になって、見た目もごつくなった郁也でも、佑輔は変わらず愛するだろう。佑輔の目には、多分一生、キラキラ光る金の粉が舞い散り続けるだろうから。  そう、あれは。高等部の三年のとき。  夏休みの図書室から、ふたりで一緒に帰る階段で。泣いて目の周りを腫らしても、やっぱりキレイな郁也を不思議に思って抱き締めた。そのあと、ふたりの口づけを目撃した兄が、学院の外で待っていて。  佑輔の中で、記憶の断片が幾つも煌めく。どれもこれも、胸が詰まるほど愛おしい。  烏飼は佑輔に語り続けた。責めるように、諭すように。 「あのコの羽はあんたのせいでボロボロだ。あの気位の高いキレイな天使が、あんたのために羽を毟られに行ったんだ。自分からそんな目に遭いに行ったんだよ」  どんな姿になっても変わらずに。  だがそれは時間の経過だけを想定した覚悟だった。  時間とともにゆっくり抜け落ちた羽のことしか、考えたことはなかった。  佑輔も、郁也本人も。 「もしも。もしも姫ちゃんがそれでもあんたの許へ帰ったら、あんた、残った羽を更に毟るようなことはしないよな。そんなことになったら、そのときは、あのコ……」  烏飼はそこで言葉に詰まった。儚げな郁也の笑顔が揺れた。心底惚れた男の側で、幸せそうに笑っている。それは烏飼にとっても夢だった。夢の天使だったのだ。  自分のように、何もかも諦めて自暴自棄になることもなく、キレイなままで微笑んでいる。現実にはあり得ないお伽噺。  電話の向こうから返事はない。  烏飼は黙って通話を切った。
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