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8、ボクの全てを、あなたに上げる-5
泣くんなら帰れ。
郁也は床に這いつくばったまま首を振った。
帰れない。もう帰るとこないんです。
だが。
郁也の目からは涙があふれ続けた。
泣きながら、郁也は指を動かそうとした。
歯を食い縛りながら白い上着をするりと床に落とし、中に着た化繊のブラウスの釦に手を掛ける。
先生の手の中で、カランと氷の鳴る音がした。先生は自分を眺めているだろう。冷ややかに自分を観察しているだろう。三つ目、平らな胸の上の釦を外そうとして、郁也は耐え難い痛みに身体を曲げた。高級な絨毯を汚してはならない。慌ててバッグを掴み、バスルームへ駈け込んだ。
「う……うぅっ」
みぞおちの辺りが絞り上げられ、胃の内容物が全て出た。「全て」と言っても、ここ数日大したものは入れられていなかった。水分と、そして、緑の胆汁だけ。
(いたい……)
肩で大きく息を吐きながら、ようやく郁也は身体を起こした。洗面台にしがみ付いて、泣いている自分の惨めな姿が鏡に映る。控え目にしたアイラインが涙に滲み、リップグロスがはみ出していた。
郁也はゆるゆるとバッグを開けて綿棒を取り出した。真志穂に教わったメイク直しの技術。滲んだラインを拭い取り、唇は思い切ってティッシュでオレンジベージュの口紅ごと取ってしまう。
早く直して戻らなければ。
唇を擦るティッシュのザラついた感触に、郁也の咽がまた「ウッ」と鳴った。
郁也は洗面台の縁を握り締めた。拭ったばかりの目からまた涙が流れた。
キーと静かな音がして、バスルームの空気が動いた。
鏡の端で、先生がバスルームの扉を引いていた。
鏡の中で、先生と目が合った。
郁也は目を逸らさず、その視線に立ち向かった。
先生は徐に口を開いた。
「君はまだ何者でもないし、何も持ってない」
そうだ。その通りだ。だから自分はここにいるのだ。徒手空拳で、辛うじて女物のスーツに身を包んで。それがどれだけ悲しいことか。目の前のこの男に分かる訳がない。金の掛かるスイートルームを定宿にして、自分の専門分野で幾らでも稼ぎ出せる成功者のこの男に。
「そんな何もない君が、ひとつだけ持っているものがある。分かるか」
(ボクの、持っているもの……?)
言葉が出ない。出ないまま、先生の表情を読もうと郁也は鏡に目を凝らす。
「その純情だ」
先生はそう言って、バスルームの扉から手を離した。先生は腕を組み、開いたバスルームの戸口に寄り掛かった。
無言で鏡を見つめる郁也に、先生は言った。
「俺は、君からその純情を捥ぎ取ることも出来る」
(「純情」……)
純情と言われればその通りだ。誰にも愛されないと絶望して、本心を誰の目にも触れさせず、たった独りの孤独に耐えていた郁也が。
初めて希望に出会ったのだ。
あの夏の日から六年。
明るいあの陽の光だけを頼りに。
ただそれだけで自分は生きてきた。
これを純情と言わずして何と言おう。
郁也の頬をまた新たな涙が伝った。鏡の中の先生の輪郭が揺れた。
「だが……」
先生が胸で組んだ腕を解き、頭を掻いた気配がした。
「今はそれを手放すんじゃない。失ってしまえば、二度と手に入らない」
このひとは何を言っているんだ。
郁也は身体を起こして振り返った。そうして直接先生と対峙した。
鏡を通さない先生は、無表情のまま続けた。
「君の在り方と、将来を、大きく変えてしまう」
先生の視線は郁也に向かいながら、何か遠い別のものを見ているようだった。
「帰りなさい」
淡々とそう告げる先生の声は、郁也の耳に、とても、とても遠いところから聞こえたように響いた。
「お疲れさま、ママ」
奥のボックスにぐったりと座り込むママの前に、温かなココアのカップがそっと置かれた。ママが疲れたときに欲しがるもの。それを知るのはひとりだけだ。正確にはふたりだったが、もうひとりはとうにそれを忘れた。不幸に打ちのめされ、無理をしてそれを忘れたものがかつていた。
さらりと長い髪を揺らして、隣に桔梗が腰を下ろした。
「珍しいわね、そんなにくたびれるなんて」
ママは黙ってカップを取った。
桔梗は「そんなに後悔するなら、止めとけばよかったのよ」と軽やかに笑った。
「あんたの気持ち分かるわ。綾乃、懐かしかったんでしょ、自分の昔を見るようで。自分の人生は遣り直せないまでも、あのコに託して見たかったのね。あのコが最後どっちへ転ぶか、見届けたかったんでしょう」
ママは返事をしないまま、桔梗の淹れたココアを飲み干した。
古い付き合いだ。この桔梗は、同志だった。胸の潰れた夜も、自分を賭けて大勝ちした朝も、全てを共にして乗り越えて来た。桔梗の身にもいろいろあった。独りでは歩き切らない都会の砂漠を、肩を貸しながら手を引かれながら、一緒に渡って来たのだ。詳細を話さなくても、それと知っている苦い想いは沢山ある。
カウンターでママの電話が鳴った。ママはのっそりと立ち上がり、ゴツゴツとフェイクの宝石で飾り立てたそれを開いた。
(俺だ)
ママはぶ厚い唇をへの字に曲げ、一拍置いてからそれを開いた。
「あら。……勝利宣言にしちゃ、随分早いんじゃない?」
皮肉なトーンに構わず、電話の相手は続けた。
(あのコは帰したぞ、隼)
「その名前で呼ぶんじゃねえよ」
ママは不機嫌に撥ね付けた。
ママは肩を竦めて携帯を挟み、カウンターに並んだウイスキーのボトルに手を伸ばした。栓を開けようとするのを、桔梗が美しい所作で代わり、重みのあるカットグラスに二センチだけ注いで綾乃の手許に置いた。
「で?」
(俺の経験上な、ああいうコは不幸の色が似合い過ぎる)
綾乃は相手の言葉を聞きながら、グラスの中身をチビリと舐めた。
(純粋過ぎて、不幸の毒が身体に回ると、もう人間ではいられない。妖鬼になってしまうからな)
綾乃はまた唇を大きく曲げた。
「へえー。よく分かってんじゃない」
(ああ、今はな。昔むかし、どこかの誰かで学習したから)
綾乃はフンと鼻を鳴らしてグラスを置いた。
昔むかし。どこかで、誰かが、悲しい想いを、したかも知れない。泣き暮れた日々があったかも知れない。そんな日々を、綾乃がどう乗り越えたのか。
それは黙って隣に佇む、桔梗だけが知っているかも知れない。
(可愛いコだったよ。だから、指一本触れてない。罪滅ぼしになるかと思ったが、却って新たな罪を作りそうだ)
綾乃はグラスから離した指で、瞼を押さえた。
電話の向こうで、軽い溜息がした。数十年を振り返るような一瞬の後、先生はこう続けた。
(お前のことはこの先も面倒看るよ。一緒には暮らせないけれど)
取り返せない過去に繋がれたまま生きてきた。人生の最後まで、あの刻は、桜の舞い散る川縁で、並んで座ったひとの温かさは。
自分を離してくれないだろうと綾乃は思う。
もう涙も出ない。
ママは静かに通話を切った。
桔梗がそっとママの肩を擦った。
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