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9、天使が人へと変わる刻-1
何故か足はアパートへ向いていた。
今更どの面を下げて帰れるというのだろう。
郁也は重い荷物を提げて、それより重い脚を引き摺っていた。
こんなに重い荷物を持って、それでも郁也は手ぶらなのだ。
空手で帰れる部屋ではない。なのに。
足は勝手に佑輔の待つふたりの部屋へ向かっていた。
(泣くんなら帰れ)
幼子をあやすような深い声に、郁也はいやいやと何度も首を振った。
帰れない。
ママの処に泣き付いたときから、ママから名刺を受け取ったときから、郁也には帰る部屋はなくなった。
なのに。
高級ホテルのスイートを定宿にしている「先生」は、郁也に充分な金を約束した。それを頼んだときから、郁也はもう佑輔の許には帰れないと覚悟した。
佑輔への裏切りだ。
自分が今こうして生きていられるのが、全て佑輔のお蔭だった。その佑輔を裏切って、自分は金を得ようとする。それが何のためであろうと、誰のためであろうと、その事実に変わりはなかった。郁也は佑輔の真っ直ぐな気持ちを裏切ったのだ。
なのに自分はここにこうして歩いている。
結局郁也は泣き止むことが出来なかった。泣くのを止め、スーツを脱ぎ、「女性」の扮装を解くことが出来なかった。
衣服を剥いで出て来る貧相な男の身体を、先生の前に晒すことがどうしても出来なかった。
佑輔以外の男に触れられることを、とうとう我慢出来なかったのだ。
涙をこらえ三番目の釦を外そうとして、どうしても出来ずに、あの部屋を飛び出して逃げ帰ってしまった。
何て。
何て意気地のない。
それしか出来ることがないと、覚悟を決めて行った筈なのに、それすらも出来なかったなんて。
あの佑輔を、郁也のような人間に優しくしてくれた佑輔を裏切って置きながら、何の成果も持ち帰ることが出来なかったなんて。
郁也は佑輔も、金も、失ってしまった。
頬を伝う涙を拭う気力すら失って、郁也はそれでも歩いていた。
部屋の灯りが滲んでぼやけた。
この世から、消えられるものなら、消えてしまいたい。
(佑輔クン……)
もうそう呼び掛ける資格すら自分にはない。
そう思っている筈なのに、郁也はポケットからキーホルダーを取り出していた。佑輔のとお揃いの、スペースシャトルのエンジン模型。
ゆっくり鍵が手の中で回り、重い扉を引き開ける。
(佑輔クン)
部屋の真ん中で、佑輔はぽつんと座っていた。片方の膝を曲げ、そこに顔を伏せてじっと黙って動かない。
このひとはボクが何をしてきたか知ってる。
郁也にはもう何も見えない。佑輔の肩が震えたような気配がした。
「ごめん。ごめんなさい」
郁也は思わず謝っていた。
「ボク、もうここへ帰って来ちゃ、いけなかったんだ。なのに」
本当はここへは金を置いて行く筈だった。
佑輔の父を、就職を、一生を助けるための金。それらの全ては救えぬまでも、差し迫った危機だけはそれで切り抜けられる筈だった。だが。
郁也はその手に何も持たずに逃げ帰って来ただけだ。何のために向かったのか。何のためにこのひとを裏切って。何のために自分の希望から手を離して。光を、全てを失ってまで。
「ボク、馬鹿で、意気地がなくて、駄目なヤツで。あんなに決心して行った癖に何も出来なくて。佑輔クンのために、何も出来ない。だから……」
郁也はひくっと肩を上下した。佑輔は顔を上げもしない。拒絶、だ。
当然だ。それだけのことを自分はしたのだ。
郁也は小さな玄関を後退った。
「荷物は今度取りに来るから。それじゃ」
上がり框にエンジン模型のついたキーホルダーをかちゃりと置いて、郁也は部屋の扉を閉めた。
どこへ行こう。
取り敢えず、松山君のとこへでも転がり込もうか。
お兄ちゃんなら、きっと嫌な顔をしても部屋に入れてくれるよね。お礼に掃除、して上げよう。
郁也は歩き出した積もりだった。
だが。
足が前に出ない。
見えない鎖で縛られてでもいるように、郁也の足は前に出なかった。
部屋の中央には佑輔がいる。
この後ろ、二メートルの位置に佑輔が座っている。
(佑輔クン……)
たった二メートル離れているだけの処に佑輔がいる。
郁也は扉の前に座り込んだ。背後に佑輔の存在を感じながら。
二メートルの距離を縮めることは叶わなくても。
その間にある壁を、扉を越えることは出来なくても。
せめてもう少しだけ、佑輔の存在を感じたい。
あのひとの近くにいたい。
郁也は膝を抱えた。
うずくまる郁也の目に、初めてこの部屋の扉を開けた日が蘇る。
不動産屋から受け取った鍵は渋くて、開けるのに少し手間取った。扉を開けると中は下見に来たときより明るくて、何だかいいことがありそうな気がした。郁也にじゃれついて来る佑輔を、運送屋が来るからと宥めて急いで掃除した。まだ春浅く、肌寒い日だった。
「楽しかった、なぁ」
郁也は泣きながらそう笑った。
涙があふれて何も見えない。目を閉じると、十六歳で佑輔と出会ってからの記憶がパラパラと瞼に浮かんだ。
学院祭の仮装。後夜祭を抜け出して向かった教室には、王子さまが笑っていた。そして初めて約束をして。
一緒に過ごした夏休み。二学期が始まって、ひとめを避けて一緒に帰り。
秋には佑輔は自分の部屋に郁也を呼び、自分のベッドに入れてくれた。その夜、帰った郁也は母の前で泣いてしまったりしたものだ。
次の年には、アメリカ行きで留守にする母が一週間佑輔を家へ呼び、初めて体験した甘い生活に、ふたりは一緒に進学することを決めた。
一緒の大学へ行こう。そしてふたりで一緒に住もう。そうすれば終バスの時間が来ても、ずっと一緒にいられるんだ。
佑輔が郁也を女のコとして愛してくれたのもこのときだ。郁也の身体のずっと奥深い処に幽閉されていたいばら姫は、ようやく勇者に救い出された。勇者に愛されたいばら姫の安堵の溜息。それは郁也を悲しい絶望から開放した。
郁也の男のコも女のコも、佑輔は愛してくれていた。
郁也は輝く天使の欠片を見た。自分に降り注ぐ金のシャワー。それは真理の輝きだった。自分はもう、悩まなくていい。
佑輔は今の郁也の身体を受け容れた上で愛している。この身体に拘っているのは自分だけ。なら、もう、郁也は悩まない。佑輔の受け容れた身体を、自分も受け容れればいいだけだ。そう気付いた夏の夕暮れ。
受験勉強を一緒にして、同じ大学に合格して、ふたりで決めた部屋へ引っ越して。貧乏ながらも徐々に整えた生活用品。ままごとのような、幸せな暮らし。
悲しいこともあった。郁也の知る限り、佑輔はふたりほど女を抱いている。
「何だよ、自分ばっかり。ボクだってその分権利あると思うけどな」
郁也はそう呟いて唇を尖らせた。くすっと笑う積もりが、また勢いよくあふれた涙に自分の膝に突っ伏した。
自分と佑輔の間にあったものは、権利ではなかった。
佑輔が他の女とセックスをしても、それが許せないものであっても、それでも一緒にいたいと郁也は願ったから。
だから郁也は佑輔から離れなかった。
それは郁也の気持ちの問題だ。
他の男とそれを楽しんだ郁也でも、一緒に暮らしたいかどうか。それを決めるのは佑輔だ。
誰よりも、郁也を愛しているのは自分だと、かたときもそれを忘れて欲しくないからと、いつも郁也に優しくしてくれていた佑輔。その気持ちを踏み躙ってしまった。佑輔を苦しめた。なのに、その引き替えに手にする筈のものさえ手に出来ず。
(何て馬鹿なボク)
郁也はふたりの記憶の中へ逃げた。
いつまでも夏の日の中へ、楽しかった日々の記憶を追い続けた。
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