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9、天使が人へと変わる刻-2
(あんた、あの天使を愛しているかい)
ああ。勿論だ。
(ならさ、天使がどんなに傷付いても、変わらず愛して遣れるかい)
烏飼の言ったその言葉。
電話で、烏飼は佑輔を責めていた。
(あのコの羽はあんたのせいでボロボロだ。あの気位の高いキレイな天使が、あんたのために羽を毟られに行ったんだ。自分からそんな目に遭いに行ったんだよ)
(もしも。もしも姫ちゃんがそれでもあんたの許へ帰ったら、あんた、残った羽を更に毟るようなことはしないよな)
(そんなことになったら、そのときは、あのコ……)
郁也のことを、誰よりもよく知るのは自分の筈だった。なのに、佑輔の知らない郁也を知る男が他にいた。佑輔のせいで追い遣られた世界で生きる、佑輔の知らない夜の郁也を。
郁也の中には男のコの他にも女のコがいて、冷淡で意地悪で、高飛車なくせに淋しがりやで、いつも佑輔の腕を求めて泣きべそをかいている。
理性的でクールな郁也と、甘えん坊で愛情深い郁也。そのどちらもを分かっているのは世界中で自分だけ。郁也がそれを見せるのは世界で唯一自分にだけだから。
郁也が何を求めていて、郁也が何を喜ぶか。自分だけがそれを知っている。自分だけがそれを満たしてやれる。そう思うことが、佑輔の生を支えていた。
佑輔の天使。
限りなく優しく美しいその笑顔。
あの笑顔のためならば、どんな苦労も苦労じゃなかった。
あの笑顔を守るため、佑輔は生きて行こうと思っていた。
なのに。
いつもいつも。自分の存在が天使を苦しめる。
自分の過ちが、自分の不甲斐なさが、自分の経済力のなさが、郁也を窮地に追い込んでしまう。
いつも、いつも、いつもだ。
佑輔は悲しかった。
郁也の苦しみに気付かない自分。その必死の決意を止められなかった自分。
そして自分の知らない世界に郁也を見付け、郁也を守るため佑輔に電話を掛けて来た烏飼。佑輔は烏飼に嫉妬していた。悔しかった。自分の知らない郁也を、この男は知っていた。
烏飼ほどにも、自分は郁也を理解していない。
自分には、郁也が羽を毟られるのを食い止められないばかりか。
そもそも自分のために郁也は自ら毟られに行ったのなら。
佑輔が、手を、離して遣れば。
天使はもといた世界へ帰れるのではないか。
佑輔の存在が、郁也を堕天使の境遇に貶めているのなら。
(佑輔クン……)
郁也の声が佑輔を呼んでいた。笑いながら、泣きべそをかきながら、絶望に真っ暗な声で、快楽の絶頂で。天使の息遣いを佑輔は思い出す。ここでふたりで暮らした日々。毎夜交わした甘い口づけ。互いのための互いの身体。
佑輔は顔を上げた。
狭い上がり框にちょこんと残されたキーホルダーが目に入った。佑輔はのろのろと立ち上がり、それを指の先に摘んで見た。かちゃと小さな音を立て、それは佑輔の指先で揺れた。
佑輔の使っているものと同じもの。同じ部屋の鍵が、佑輔のものとは違う実家の鍵と並んでぶら下がっている。
「あいつ、実家の鍵ごと置いて行って……」
どうするんだろう。不便だろうに。そう考えた佑輔の心臓が、きゅっと不穏な予感に縮んだ。
(もしかして、もしかしてあいつ)
もうそれらを必要としない世界へ行こうとしているのではないのか。もう佑輔に苦しめられることのない世界へ、生きているのすら苦痛なこの世界から、どこか遠くへ羽ばたいて行こうとしているのか。
(郁。まさか)
佑輔の耳にあのサイレンがこだました。静かな丘に突然響いた救急車のサイレン。あのとき、空のままの郁也の席が目に入り、佑輔の心臓は不穏な予感に凍り付いた。
(丁度その辺だったよ。あいつが倒れてたの)
そう語った中野の声が聞こえた。
(どんな夢見てたんだか。あいつ笑ってたよ。幸せそうに。まるで「眠り姫」みたいに)
傷だらけで地面に横たわる、青ざめた郁也の悲しい姿。全身傷だらけで、着ていた制服もボロボロになって、それでも幸せに笑う姫君。もはや夢の中にしか、自分の幸せはないと言うのか。佑輔の瞼にあの学院の理科室の窓が蘇る。
あのとき、郁也は本当は死のうとしたのではなかったか。たまたま考える余裕がなくて、たまたま窓が低かっただけで、高いところへ辿り着けてさえいれば、十六の秋、郁也は永遠に彼方へと飛び去っていたのかも知れない。
(郁。俺の天使)
天使は自分のあるべき世界へ、飛んで帰ろうとしているのだろうか。
譬え天使の羽を毟り続けることしか出来なくても。
佑輔はもう彼なしに生きることは出来ない。
あのきらきら光る金の粉。あれなしには生きて行けない。
お姫さまを支えることに、自分は支えられ、何とか生きることが出来る。
郁。
俺の天使。
(行くな。行かないでくれ)
(俺といることが、苦痛しか生まないとしても、それでも)
(この世で生きていて欲しい)
(郁。まだ間に合うか。郁)
(どこへも行かず、ここにいてくれ)
(郁……!)
佑輔は急いで扉を開けた。
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