9、天使が人へと変わる刻-3

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9、天使が人へと変わる刻-3

 楽しかった思い出ばかり。  故意とそればかりを追い掛けて。  郁也は佑輔と住んだ部屋から離れられずに座っていた。  寒いような気がしたが、よく分からなかった。膝が涙で濡れたような気もしたが、それもよく分からない。そんなことはどうでもよかった。  気を緩めればすぐ不甲斐ない自分を責める気持ちが湧き上がる。佑輔の役に立つために佑輔を裏切って、なのに何も得られずおめおめと帰ったことの悔しさが、裏切ってしまった佑輔への申し訳なさが、そして。  自分に何もないばかりに、こうするしかなかった悲しさが。  佑輔を失ってしまったことへの絶望に辿り着くまいと、郁也はそうして幾重にも障壁を設けた。だが。  事実は変わらない。もう、あの優しい佑輔の微笑みを頼みに生きる暮らしは自分にはない。もう手は届かないのだ。 「う、うぅ」  幸せな記憶を必死に追い掛けて、郁也はまた顔を伏せた。  そのとき。  バンと勢い良く扉が開いた。郁也はコンクリートの通路に突き飛ばされた。 「痛たた……」  郁也は突然の衝撃に顔を上げた。真っ青な顔をして、佑輔が部屋の扉を開けていた。佑輔はドアノブを握り締め、じっとその場に立っている。郁也は微笑みの形に唇を曲げた。 「ごめん。明るくなったらどこかへ行くよ。陽が昇ったらここを離れるから。だから、朝までここにいさせて」  朝まで、あなたの近くにいさせて欲しい。最後に、それだけ、ボクに許して。郁也は心の中でそう言った。決して口には出来ない想い。郁也はまた膝を抱えた。  笑った積もりでも、郁也の泣きべそは止まらなかった。ひくっひくっと震える細い肩。佑輔は顔を背けた郁也に駆け寄った。 「郁……!」  佑輔は郁也のか細い身体を抱き締めた。 「……郁。郁!」  嘘。  郁也は佑輔の腕の中で首を振った。嘘、だ。 (郁)  郁也をそう呼ぶ佑輔の声を、また聴けるなんて。この温かい胸が、郁也をまた包み込んでくれることがあるなんて。  佑輔の身体の熱量は、郁也に寒さを感じさせた。麻痺していた感覚が戻って来た。郁也は身体をがたがた震わせた。寒い。身体がバラバラになりそうだ。  自分はもうこのひとに許しを乞える立場じゃない。なのに、このひとの胸の中で、自分は寒さに震えている。  郁也はどうしていいか分からなかった。優しくして貰うのはルール違反だ。この胸を、この腕を、自分は振り払うべきなのではないか。この優しさに甘える資格は自分にはない。郁也はそう思った。  佑輔は震える郁也を扉の内側へ引き戻した。郁也は何度も首を振った。そうしちゃいけない。そうされることに甘えちゃいけない。だが郁也に振り払うことなど出来はしなかった。  郁也は扉の内側で、ふたりの部屋の入り口で、佑輔に抱き締められるままになっていた。 「郁。郁……」  佑輔は郁也の名を呼び続けた。  郁也の涙は止まらなかった。結局ボクは、このひとに何もして上げられなかった。その思いは郁也の心から去らない。このひとを裏切って、苦しめたにも関わらず、何にもならなかったんだ。  郁也は寒くて寒くて死にそうだった。息も出来ないほど抱き竦められながら、郁也の心はどこか麻痺したままだった。 (寒い……) 「佑輔クン」 「ん?」  歯の根が合わない。がたがた震えて郁也は言った。 「ボクを、許してくれるなら」  佑輔は腕の力を少し緩め、郁也の顔を覗き込んだ。 「抱いてくれない? 寒いんだ」    ふたり分の床を延べながら、佑輔はぼそりと「脱いで」と言った。  郁也は吐き気をこらえ、言う通りにした。  最後の一枚を指から落とし、郁也はその場に膝を突いた。佑輔は着衣のまま身体を隠す郁也の腕を除けた。郁也が目を伏せ顔を背けるのを、黙って佑輔は眺めていた。  佑輔は郁也の身体を、隅々まで検めた。腕を上げられ脚を開かれ、自分以外のものの痕跡がないか調べられるうちに郁也は、自分が実験動物だったような気持ちになった。郁也は許されてはいなかった。執拗に調べ続ける佑輔の形相は修羅だった。このひとをこんなにしたのは自分なのだと郁也は思った。 「痛っ……!」  郁也は思わず悲鳴を上げた。佑輔が乱暴に郁也のいばら姫に狼藉の跡がないか探ったのだ。  いばら姫を幽閉した重い扉には、ここ数時間のうちにこじ開けられた形跡はなかった。それをはっきりさせるため、何の薬剤の使用もなく扉を検められる苦痛に、郁也は悲鳴を上げ続けた。  こんな仕打ちをされるのは初めてだった。涙が繰り返し頬を伝った。  この痛み。柔らかいところに加えられると僅かな力でも大きな感覚を呼ぶ。この苦しみ。郁也は自分でも不思議だった。自分の上げ続ける声に、場違いな快楽を歓ぶ響きも、更なる痛みを乞う媚びもないことに。自分の身体がこうした刺激に敏感に反応する性質を、よく自覚しているからだ。  ただ痛みだけがそこにあった。そしてそれは佑輔も同じだった。  郁也の身体のどこにも、目に付く変化は見られなかった。佑輔は郁也の身体を引っ繰り返し仰向けにさせた。郁也の感覚は静かでも、肉体は刺激に反応していた。郁也は自分の身体を誰かひとのもののように感じた。佑輔と一緒になって動物実験を遂行している気になった。  何の興奮も、何の甘い羞恥もなく、郁也は佑輔のしたいようにさせた。一連の手管によって、郁也の身体に然るべき変化が起きた。気持ちを切り離されていても、そうした排泄行為は進むのだと郁也は知った。  こんな感動のない行為。矢口やかつての烏飼や須藤は、これを行っていたのだろうか。確かにこれは人間ではない。  佑輔は、いつものような甘やかな余韻もなく、郁也の分泌したものを確かめた。しばらくそれを検めて、ようやく納得したのかそれを始末した佑輔は、郁也の身体の上に崩れ落ちた。郁也の身体は温まらなかった。  佑輔はひとつの結論を手にしただろう。確かに郁也の試みは未遂に終わった。その行為には及ばなかったのだ。だが、既遂か未遂かに何の違いがあろう。郁也が自らの身体を売って金銭を得ようとした事実は変わらないのだ。  佑輔は郁也の上で震えていた。いつまでもそのままでいる佑輔に、郁也は言った。 「しないの?」  その声は自分でも意外なほど乾いていた。 「なら、離して」  郁也は佑輔の身体を除け、自分の鞄に手を伸ばした。中からケータイを取り出す。佑輔が顔を上げた。 「何をする気だ」  郁也はキーを押しながら冷静な声で答えた。 「烏飼君に電話する。そして仕事、紹介して貰う」  佑輔はがばと身を起こした。 「止めてくれよ」  佑輔はケータイごと郁也の手を握り締めた。これではキーが打てない。 「離して」 「郁」  佑輔は郁也の両手を掴み、自分の方へ身体を向けさせた。郁也の顔を覗き込む。郁也はその視線から逃れるように、大きく身体を捻じ曲げた。 「郁、頼むよ。これ以上俺を苦しめないでくれ」 「だって。ボクに出来ることは他にないんだ」  郁也は布団の角を見たまま、薄く笑った。 「親の金に甘えて今まで生きて来たけど、ボク自身には、本当に何もない。何も持ってないし、何の特技もない。あるのはこの身体だけ。これだってもうじき何の価値もなくなるけど、でも、今ならギリギリ金になる。なら、他に選択肢がないんなら」 「郁!」  佑輔は郁也の肩を掴んで揺すぶった。 「どうして郁がそんなことしなきゃならん? 天使が羽を毟られるのを、俺に黙って見てろって言うのか。そんなの俺には耐えられないって、郁、お前なら分かってるだろう」 「だって!」  郁也は佑輔の手を振り払った。さっき脱いだシャツを引っ掛け、佑輔をきつく睨んで言った。 「そうしないと、佑輔クンの一生が駄目になる。そうしないと、佑輔クン、今すぐ学校を辞めるって言う。馬鹿な話だ。何のために今までやって来たの。お家のお金をみんな遣って東栄学院に入ったのは何のため。あんなに苦労して探した就職先もみすみすフイにして。大学中退じゃ、あんないい会社に入るチャンスないよ。それに見合うほどのやりたいことを見付けたのならともかく、それじゃお父さんの医療費だってすぐに行き詰まっちゃうよ」  シャツの端をきゅっと握り、郁也は大きく息を吐いた。 「分かってないのはどっちだよ。そんなのボクが黙って見てられないことくらい、どうして分からないんだ」  はたはたはた……と郁也の目から涙がこぼれた。  佑輔にとっては見慣れた涙だ。郁也が泣くと、佑輔はいつも自分の方が辛そうにする。郁也の胸を占めているのが怒りであれ悲しみであれ、何とかそれを鎮めようと必死になる。  佑輔の顔から修羅の仮面が落ちた。郁也の涙におろおろして謝る、いつもの佑輔が顔を出した。 「郁……。郁、ごめん」  郁也は無言で目を伏せた。佑輔は床に手を突いた。
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