9、天使が人へと変わる刻-4

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9、天使が人へと変わる刻-4

「俺が、俺が悪かった。郁、頼みがある」  郁也はその場でじっとシャツを握り締めている。佑輔は言った。 「明日、淳子さんに電話してくれないか」  郁也は濡れた顔を上げた。 「佑輔、クン?」 「就職したら、必ず分割で返すから。借用書も入れる。だから、金、貸してくれって」  佑輔は鼻を掻きながら、「返済計画もちゃんと差し入れるよ」と付け加えた。  郁也は腰から力を抜き、佑輔の手を上げさせた。ふたりの身体が近付いた。 「俺に詰まらない意地なんか張る資格ないんだな。俺がそんな甘っちょろいこと言ってるから、郁を辛い目に遭わせてしまう。みんな俺が悪いんだ」 「佑輔クン……」 「郁」  佑輔は郁也の頬に指を這わせた。郁也はぷるっと身体を震わせる。 「だから、郁はもうこれ以上、馬鹿なことしようとしないでくれ。頼む」 「馬鹿なことって何さ」  郁也は唇を尖らせて見せた。自分のそれは今赤く潤んでいる。郁也には分かる。佑輔の視線はそこへ吸い寄せられる。思った通りだ。 「だから……、その、自分の羽を毟らせたりするようなことさ」  佑輔は苦笑した。 「郁ってば、いつもうじうじして行動力のコの字もない癖に、キレたらとんでもなく暴走して止まらないんだから。はらはらさせられるよな全く」  佑輔の笑顔。それは郁也をいつも幸せにする。  またこの笑顔をこんな近くで見られるなんて思わなかった。 「郁」  佑輔の焦茶の瞳が郁也をじっと覗き込む。郁也は無言でそれを見上げた。 「天使の羽を、また俺に見せてくれよ」 「佑輔クン……?」 「ほかのヤツには見せないでくれ。下らない俺のエゴだけど、分かってるけど、でも嫌なんだ。郁がほかの男に見られたり、触れられたりするの、俺、嫌だ。郁がほかの男に触られて、感じたり、声聴かせてやったりするなんて俺耐えられない。頼むよ。もし郁が少しでも俺のコト好きなら」 「好きだよ」  すぐさまそう言った郁也の声は甘く掠れていた。佑輔は郁也の肩からシャツを落とした。ゆるやかにそれは郁也の肩から腕を伝い落ちた。顕わになる胸を、腹を、佑輔は欲望に燃える目で見た。 「俺だけのものでいてくれ。頼む」  やっぱり、気持ちが付いて来ないと、感じない。  郁也はゆっくりと身体の中を膨れ上がる欲望に、意識の座を明け渡しながらそう思った。  気持ち、いい。  これが本当のセックスだ。  佑輔の胸にきつく抱き締められて、郁也はうっとりと睫毛を伏せていた。隣では佑輔が身じろぎして、急に身体を硬くした。 「どうしたの」  郁也はのろのろとそう尋ねた。佑輔は唇を引き結んだあと、意を決したように口を開いた。 「郁。俺と結婚してくれ」  郁也はあまりのことに返事も出来ずに黙っていた。佑輔は重ねて言った。 「俺の嫁さんになってくれよ」  郁也はゆっくりと身体を起こした。 「籍、入れる? ボク、女のコになった方がいい?」  佑輔は慌てて打ち消した。 「いや別に、俺が嫁さんでもいいんだけど、それじゃ美しくないっつーか。そうじゃなくて。籍なんてそんなものどうでもいいんだ」  佑輔は真面目な顔をして起き上がった。 「ずっと、俺と一緒にいてくれないか」 「佑輔クン……」 「郁が帰って来なくて、帰ったと思ったら鍵を置いて出てっちまって。俺、初めて郁がいなくなったらって考えた。真っ暗で何にも見えなくなって、どうしていいか分からなかった。郁が側で笑っててくれないと、俺、生きて行けないんだって分かったよ。だから」  郁也は自分の心臓がばっくんばっくんと跳ねるのを感じた。熱く脈打つ心臓の鼓動。それは全身に広がり、耳の後ろでもばくばく鳴った。  嘘。嘘……。 「郁、俺、営業で仕事探したろ。営業経験者は再就職しやすいからさ。郁がこのまま研究を続けて、どこかの大学に招聘されても、俺従いて行くから。ずっと俺を側に置いてくれよ」  頼む。そう言って佑輔は頭を下げた。郁也は信じられなくて自分の指を噛んだ。噛んだ歯も、指も震えている。 (本当? 本当に? 佑輔クン、本気でボクなんかに) 「……駄目か」  佑輔は項垂れて口を閉じた。郁也は震えたままの指で佑輔に触れた。 「駄目だよ」  佑輔の頬から血の気が引いた。がっくり肩を落とす。郁也は続けた。 「いつか本当に素敵な女性が現れたとき、困るでしょ、佑輔クン」  佑輔は驚いたように首を振った。 「郁、まだそんなこと言って。何度言ったら分かってくれるんだ」 「佑輔クン本当は女のコが好きでしょう。ボクなんかじゃ駄目だよ」 「郁は俺じゃ駄目なのか」 「……そんな訳ないじゃない」 「じゃあ何も問題ないだろう。それに郁は何かっつーと俺のことストレート、ストレートって言うけど、それだってアヤシイもんだぜ。俺、ほかに好きになったヤツいねえもん。女も、男も」 「そんな」  郁也は言葉に詰まった。郁也の震える指の先で、佑輔は十六のときと少しも変わらぬまっすぐな瞳で郁也の言葉を待っていた。キレイに澄んだ茶色の瞳で。 「だって」  郁也はにっこり笑って首を傾げた。頬をまた涙が伝う。よく泣く夜だ。 「そんなこと言われたら、ボク、本気にしちゃうよ。本気にして、本当に一生離れなくなっちゃうよ」 「うん。そうしてくれ」 「本当だよ」 「ああ。頼むよ」 「本当に」 「郁」  郁也は顔をくしゃくしゃにした。佑輔の頬に置いた指が大きく震える。 「本当にボクを『お嫁さん』にしてくれるの」  来世を待たず今生でその願いが叶う。なら、郁也は急いで死ななくてもいい。  佑輔は郁也の腕を掴み引き寄せた。郁也の身体はまたいつものように佑輔の胸の中にすっぽり収まる。郁也の特等席だ。この胸を、失うことを怖れなくてもいいの?   いいの? 佑輔クン。 「郁よりいい嫁なんて、どんなに探したって見付かりっこないよ。だって、こんな下らない男のために、あんなことまでしようとしてくれるんだから。だけど俺、郁が自分の身を危険に晒すような真似、もうして欲しくないんだ」  佑輔は胸に収まる郁也の髪を優しく撫でた。何度も何度も撫で続けた。郁也の咽がひくっと鳴る。 「分かったかい。郁はもう俺の嫁さんなんだから、ほかの男に抱かれちゃ駄目だよ。その代わり、俺も自分の困難をひとりで抱え込むのは止めにする。一緒に、苦労しよう。ごめんな、俺の貧乏に、郁を引き込んじまうけど」  ほかのどんな愛の言葉より。  ボクを感じさせてくれる。 「一緒に苦労しよう」なんて。  聴いたかい。よかったね、ボクの中の女のコ。郁也は静かに目を閉じる。インストールされていたプログラムが、音を立てて走り出した。  その音は、チャペルの鐘より、人々の拍手より、郁也の心を幸福で満たした。
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