10、純白の婚礼衣装を-4

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10、純白の婚礼衣装を-4

 郁也がさっきの会話を思い返していると、佑輔が手を伸ばして薔薇の花束を受け取った。用意して貰った花瓶にそれを活け、郁也からよく見える処に置いてくれた。  みんな、幸せになるといい。  郁也はにっこり微笑んだ。 「佑輔クン、どこまで知ってたの?」 「俺?」 「うん。まほちゃんと写真館のとこまでは打ち合わせしてたんでしょ」 「ああ。松山が、その、『新妻と一泊出来るくらいの装備は整えて置けよ』と言って来たから、何かあるんだろうとは思ってた」 (『新妻』)  恥ずかしい。郁也は耳まで熱くなった。慌てて照れ隠しに背中に腕を回した。 「あ、じゃ、ボクそろそろこれ脱ごうかな」 「待てよ」  佑輔が郁也の手を止めた。 「俺にも、見せてくれよ。何だか慌ただしくて、俺まだゆっくり見てないんだ」  こっち、向いて。 (佑輔クン……)  クラス会が終わってまた郁也たちを押し込めたタクシーは、今度は地元一のホテルに停まった。  真志穂がまた郁也のドレスの裾を持って、松山と佑輔がふたりの荷物を運び出すと、ホテルのひとが駆け寄って来た。真志穂と松山が手筈通りに郁也たちをホテルのひとに引き渡し、あとはここまで連れて来られた。 「奥様のお着替え、お手伝い致しましょうか」との申し出を、佑輔が「もう少し眺めていたいので」と断るとホテルのひとは「それではご入り用の際はいつでもお報せくださいませ」と微笑ましいものを見る笑顔で去って行った。  松山が去り際「今日だけは何でも贅沢させて遣れよ。みんなからの祝いの金は預かってるから。お前らに渡すと郁代が全部お前のために残しちまうから、今回だけは渡さないぞ」とふたりに言い渡した。  着替えが要れば下の服屋に、腹が減ればルームサービスに。何でも好きなだけ遣うがいい。兄は郁也にそう笑った。 「俺にだけ、見せてくれないなんて言うからさ。俺、どうしても見たくって」  佑輔クン、どうしてそれを知ってるの。誰? 裏切り者は。 「まほちゃん、なの」  佑輔はこくんと頷いた。 「あんたにだけは見せたくないって、あのコがどんな想いで言ったと思うのっ、て。怒られた」 (あのコにあの衣装を着せられるのは、この世であんただけなのに。あのコが今までどんなに辛い思いで生きて来たか。その少しでも分かってるの。あのコ、あんたに負担を掛けると思って、それで)  幸せな結婚を夢見てる、普通の当たり前の女のコなのに。  真志穂は電話口でそう泣いたそうだ。  ホテルのひとが裾を拡げてくれたまま、郁也は衣装を着けて次の間のソファに座っていた。佑輔は郁也の傍らに膝を付いた。 「郁……」 「でも、高価かったんじゃないの。どうしたの」 「年末年始、谷口牧場で使ってもらった。肉体労働。ハードだったぁ」  正月はそれぞれの実家に別々に帰る。今年の冬もそうだった。治療中の佑輔の父を心配して、それで長めに帰っていたんだとばかり思っていたのに。  佑輔は笑った。 「だから、現実、殆どそっちの親族が作ってくれたようなものだな」 「佑輔クン」  胸のシルクの薔薇が揺れた。 「……ありがとう」  郁也の頬を涙がひとつぶ転がった。佑輔は首を振った。 「だって、郁は俺の嫁さんだろ。俺みたいな男でも我慢してくれるんだろ。礼を言うのはこっちだよ、郁」  ありがとう、な。 (佑輔クン)  見て。  純白の花嫁衣装を着けたボク。  浅ましくって、滑稽な姿。だけど、正直なボクの気持ちなんだ。  やっぱり、ボク、女のコだった。  ちっぽけな、普通の、文化による刷り込みに突き動かされるだけの、平凡な。  だから普通のお嫁さんに憧れる、普通の女のコだったんだよ。  この衣装を着けてる間、ボクは物語の主人公なんだよね。  これから素敵なダンナさまとの新生活が始まる。佑輔クン。そうだよね。  ねえ、佑輔クン。ボク、キレイかな。今でも少しはそう思う? 「ああ。キレイだよ、郁。この世の誰よりも」  そしてそう見えるのは、きっとこの世で俺だけなんだ。  郁。俺の天使。俺の、嫁さん。  郁也の膝の上で、佑輔が郁也の手を握り締めた。郁也は頭がぽうとなって、佑輔の方へ吸い寄せられる。唇が触れ合って。  長い長いキス。  頬を染めた郁也が吐息を漏らすと、佑輔が楽しげに郁也を見上げた。 「角部屋のスイートだよ、郁。廊下には次の間しか接してないし、防音は完璧だ」 「佑輔クン?」  周りを気にせず、思う存分、声、出していいよ。 (あ……)  佑輔は立ち上がった。 「おいで」  郁也は佑輔の差し出した手を取った。奥の寝室にはトランポリンみたいな大きなベッド。  そしてふたりは夫婦になった。  白い衣装が床に拡がる。汚れちゃうと気にする郁也に、佑輔は「いいじゃないか、あれは郁のものなんだから」と笑って答えた。貸衣装じゃないんだよ。 「腹減らないか。さっきのレストランでも、郁、あんまり食ってなかったろ」 「うーん。よく分かんない」  郁也はみぞおちの辺りをさすって見た。感動で空腹なんて感じない。 「駄目だよそんなんじゃ。それ以上痩せちゃうよ。俺そんな郁見たくない」  佑輔はバスローブを引っ掛けて館内案内図を調べた。 「何なら食える、郁。和食、中華、フレンチ、いろいろあるぞ」  郁也はちょっと考えて身を起こした。 「着替え、ないからな」  ホテルのひとに顔を見られた。女のコ服はそのドレスしかない。松山が「服くらい買え」と言ったが。真志穂も「メイクのご用はすぐお電話を。明日もこいつとこの街にいるから」と松山を指差した。  ふーん。いつの間に。  まあ、松山は初めから真志穂を気に入っていたようだったし、郁也の存在を許容出来る男だ、真志穂の微妙な困難もまるごと呑み込んでくれるだろう。もしかして本当にお兄ちゃんになっちゃうのかな。  事前に言ってくれれば何でも用意して来たのに。  だが、事前に知らされれば、郁也はその企みを阻止したかも知れない。そんな恥ずかしいこと、進んでしでかすなんて無理だ。 「じゃ、ほら」  佑輔がルームサービスのメニューを持ってベッドに戻る。肩を寄せてそれを捲りながら、郁也は首を傾げた。 「いいのかな、ルームサービスなんてそんな贅沢」 「贅沢なんて。郁ったら、東栄出身のお坊ちゃまとはとても思えないな」と佑輔は笑った。実家だって裕福なのに。 「裕福ではないけど。まほちゃんとこと違って。……でも、実家はどうあれ、もうボクには関係ないから」 「郁?」 「だって、もう、ボクは」  郁也は佑輔の顔を見た。甘えるような上目遣いで。 「実家を離れて新しいユニットを形成したんだ。佑輔クンと」  でも、学費は続けて出して貰うんだけどね。郁也はてへっと舌を出した。  翌朝、郁也は写真館に着て来たスーツに袖を通した。茶の三つ釦。ネクタイは空色。純白の花嫁衣装は大切に仕舞った。同じくスーツ姿の佑輔と、揃ってスイートルームをあとにする。  フロントのひとが目を白黒させて言葉少なに対応するのも気にしない。気になるけど、気にしないようにする。頑張る。  ボクは頑張る。  だって、これがボクの選択した現実、事実なんだ。  大荷物をふたりで抱え、郁也は隣の佑輔を見る。郁也の生きる力をくれる、郁也だけの星。連星の軌道を、このひとと回って行く。このひととなら、頑張れるんだ。  融け残る雪に冷やされた春の風が、ふたりの頬を撫でて行く。  凛とした空気。故郷の空気だ。  この街をどんなに遠く離れても。  姿形がどんなに変わってしまっても。  佑輔が郁也の視線に気付いた。 「ん? どうした」  郁也の大好きな焦茶の瞳。これからずっと、この輝きを見ていられる。 「ふつつかものですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします」  荷物を提げたまま、郁也は深く頭を下げた。佑輔は無言で足を止めた。郁也が頭を上げるとしばらく鼻の頭を掻いていたが、やがて言った。 「こちらこそ。……ずっと、ずっと、よろしくな」 「うん!」  ずっと。ずっと。  いつまでも、隣にこのひとがいる。それだけは変わらないと、信じる心がふたりにある。  幸せになる。この幸せがこれからも続く。そう信じることが出来れば。  そのための苦労は、努力は辛くない。寧ろそれこそがふたりの幸せだ。  さあ、四月から働くぞ、と佑輔が長い手脚をうーんと伸ばした。そして郁に、可愛い服をいっぱい買って遣る。キレイに着飾らせた郁を見せびらかして歩くんだ。父の医療費のこともある。佑輔の父は昨日去り際郁也に言った。 (あれは自慢の息子なんですよ。あれの選択なら、きっと間違いはないんでしょうねえ。ふたりのために、お友達がこんなに大勢集まって)  あれのことを、よろしく頼みます。  父の隣では、お気に入りだった郁也を非難すべきか、会の感動に素直にひたるべきか、決めかねた様子の佑輔の母。郁也はふたりに謝った。「絶対謝らないって決めてたんだけど」と断って。 (佑輔クンのお父さん、お母さん。ごめんなさい。謝って済むことじゃないですけど。ボクが悪いって認めてしまえば、佑輔クンも悪いことになる。だから謝ったりしちゃ駄目なんだって思ってたんですけど。でも)  郁也は手にした薔薇の花束に顔を埋めた。 (ごめんなさい。ボクが女のコじゃなくって。女のコの身体に生まれて来なくて。身体もちゃんと女のコに生まれて来てさえいれば、佑輔クンにも、おふたりにも、こんな思いさせることなかったのに)  郁也はそこで言葉を切り、ぐっと歯を食いしばった。佑輔が心配して郁也の背に手を添えた。泣かない。ここで泣いたら、ボクの負けだ。  真っ赤な目をして唇を噛む郁也に、後ろからそっと真志穂が言った。 (誰より一番辛かったのは、いくちゃんでしょう)  真志穂は郁也の肩を支え、佑輔の父母にこう言った。 (このコ、本当に可愛いコなんです。健気で、純情で。あたし、このコの十三のときからずっと側で見て来ました。今にも朝露のように消えちゃいそうなこのコを、「あたしが守るんだ」って頑張ったりしたこともあったけど。その役割は佑輔君に譲ります。彼の方がきっとこのコなしでは駄目だから。分かって遣ってくれなくても、許して遣ってくれなくてもそれは仕方がない。ただ、ふたりをそっとして置いて遣って欲しいんです。お願いします)  まほちゃん。ボクのお姉さん。ボクがこの歳まで生きて来られたのは、このひとのお蔭。自分がどうなってしまうのか、どうなってしまえばいいのか、途方に暮れるしかなかったボクを、慰める時間をくれたひと。  お兄ちゃん。松山君はいつもボクを守ってくれる。壊れやすい不完全なボクを、周囲から守る緩衝材になってくれる。  そしてクラスのみんな。寺沢先生。かおりちゃん。  みんな、みんな、ありがとう。
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