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2、ボクを、受け取って-2
郁也が考えていると、佳織がやって来た。
「いくちゃん、何考えてるの」
「別に」
佳織は郁也の隣に腰掛け、ケータイを取り出した。
「まほさんに貰ったよ、昨日のいくちゃんの画像。やっぱキレイだね」
郁也は慌てた。
「ちょっと、こんな処で出さないでよ」
郁也が佳織の手を握り、ケータイを開くのを止めると、佳織はようやく気付いて言った。
「ああ、御免。そうだよね。こんなひとめのあるとこではマズイよね」
「もう」
郁也は唇を尖らせた。幾らその花嫁が誰か判別出来なくても、往来激しい学食で開かれては堪らない。佳織はさっぱりしたいいコなのだが、こういう神経の造りが粗雑な処が困る。
「まほちゃん、ちゃんと言った?」
「ああ、瀬川くんには見せないでって? うん。聞いてるよ」
「頼むよ」
郁也は憮然として言った。佳織は鞄にケータイを仕舞いながら無邪気に訊いた。
「でも、何で瀬川くんに見せちゃ駄目なの。瀬川くんが一番喜ぶんじゃないの」
「うん……」
歯切れの悪い郁也を、佳織は更に追及した。
「瀬川くんて、本当にいくちゃんのこと好きだよねえ。あ、いくちゃん、もしかして自信ないの」
「ある、けど」
郁也はようやく白い歯を見せた。長い睫毛がぱちぱち言った。
「もう! この幸せもの」
佳織は郁也の背をバンと叩いた。
「痛たた……。何だよぉ。乱暴な女だなあ」
ふたりは昼飯を摂りながら、取り留めない会話を楽しんだ。
「かおりちゃんだって。バドミントン部の例の彼、どうしたの」
「別れた」
「そうなんだ。何で。喧嘩でもしたの」
佳織はぐっと唇を閉じた。郁也はそんな佳織の表情を横目でちらりと確かめた。
「かおりちゃん、初めからそんなに気に入ってなかったもんね、彼のこと」
郁也はその話題をそう締めようとした。嫌がる話を掘り下げるのは好きじゃない。だが、佳織は口を開いた。
「そういう訳でもなかったったんだけど」
郁也は片眉を上げた。
「へえ、そう。なら何で」
佳織は箸を置いて郁也に向き直った。
「身体を開放するなんて、余程信頼出来る相手にしか無理だよね」
「ええ?」
郁也は驚いた。佳織は小さな声で続けた。
「だって、何されるか分からないんだよ。傷付けられるかも知れないし、最悪殺されちゃうかも知れない。腕力が違うから、抵抗だって出来ない。『このひとなら絶対大丈夫』って心底思えるひととじゃないと。そんな怖いこと、出来ないよ」
「もしくは、『このひとになら何をされても嬉しい』って思えるひとかね」
郁也はそう言って薄く笑った。
「……そっか」
「そうだよ」
上目遣いに郁也を窺う佳織に、郁也はさらりとそう答えた。佳織は羨ましそうな顔をした。
「いいなあ、いくちゃんは」
「どこが」
「だって、キレイだし。あんなに優しいひとがいつも側にいるし」
「こんなにカワイイ友達も出来たしね」
郁也はそう言って悪戯っぽい目を佳織に向けた。佳織は照れ臭そうに再び箸を動かした。
三年前、この大学に入学した頃、佳織は男のコである郁也に恋をした。郁也が佳織の窮地を救ったことがきっかけだった。だが、郁也はその気持ちに応えることは出来なかった。
郁也は初めて出来た女のコの友達に、有頂天になっていたのだった。
そんな郁也の気持ちを知る松山が、郁也を憎もうとした佳織の許へ出掛けて行った。
(橋本さんの気持ちは分かるよ。あんまりだよな、そんなのって。だけど俺たちは、俺は、あいつの気持ちも痛い程分かる。あいつな、「ボクにも女のコの友達が出来た」って、本当に喜んでた。それだけは間違いない。それはさ、俺たちが束になってかかっても、絶対あいつにやれないものなんだよ)
同性の友人。
郁也の中の女のコが求める「友達」に、なって遣ってくれないか。
松山はそう、佳織に頭を下げた。
そうしてゆっくり時間をかけて、佳織は郁也の友人になった。郁也の従姉の真志穂とも。今では三人で遊びに出掛けることもある。
「……そっかあ。『何をされても嬉しい』んだあ、君は」
「そうだよ」
定食を食べ終わった郁也は、紙コップのコーヒーをこくりと飲んで小さく言った。
「それにボク、痛くされるの、キライじゃないし」
「えーっ。そうなのぉ」
「うん。彼にはそういう趣味ないけどね。もともとボク、生きてても別に何になりたいとか、何をしたいとか、そういうのないからさ。殺されたって構わないよ」
彼になら。
佑輔の腕の中で、佑輔の手に掛かって息絶える。それはそれで、究極の幸福なような気が郁也にはする。現実にはあり得ないことだけれど。
「実際、あんまり長生きはしたくないなあ。出来れば二十七か八くらいで死ねたらいい」
佳織はその生き生きとした瞳を心配そうに曇らせた。
「どうして、いくちゃん。どうしてそんなこと思うの」
郁也はそれには答えずに、ただ黙って笑顔を浮かべた。
元気で明るい佳織に、平気でそれを答えられる郁也ではなかった。
佳織のこの明るさに、郁也はたびたび救われた。郁也が佳織を友人として好いているのもこの明るさあってこそだ。だが。
その明るさは時に残酷で。
郁也は睫毛を伏せて笑うしかなかった。
佳織は郁也の答えを待つのを止め、ふうっと長く息を吐いた。
「『何をされても』、かあ。そんな風に思えるひと、出会ったことない」
無邪気な佳織の溜息に、郁也はぼんやりした笑顔のまま言った。
「そりゃそうさ。そんなの滅多矢鱈に出会えるもんじゃないよ」
「でも、いくちゃんは出会った訳でしょ」
膨れっ面の佳織は駄々を捏ねるように唇を尖らせる。
「……いいじゃないそのくらい。もう死んじゃうかって瀬戸際だったんだから」
女のコとして生きるのか、男のコのまま朽ちるのか。どうにも決められないまま、佑輔への想いだけを日に日に募らせ、郁也は破裂寸前だった。おかしくなりそうだった。
佳織は頬の空気を抜いた。
「あたし、このまま誰ともちゃんと付き合えないまま行くのかな」
佳織はがくっと肩を落とした。心細げな佳織を横目で見ながら、郁也は残ったコーヒーを飲み干した。
「当然なんじゃないの。身の危険を避けるために、余程のひとじゃないとそういうことしないってのは。ボクだって、彼以外のひととなんて考えられないもん」
「ねえ、いくちゃんさあ」
「何」
「初めてのとき、相手が瀬川くんでも怖かった?」
郁也は紙コップを持ったまま数秒動きを止めた。
「…………怖かった」
佳織はうんうんと大きく頷いた。
「そっかあ。どんなに好きなひととでも、初めはやっぱり怖いかあ」
(違う)
何やら納得したような素振りの佳織を尻目に、郁也は自分を苛んでいた恐怖は、佳織のそれとは異なると感じていた。
自身に危害を加えられる恐怖。佳織にあるのはそれだけだ。
だが郁也はそうではなかった。
暗い絶望の年月の末、現れた細いひと筋の光。その糸が、本当に自分を拒まないか。最後の最後でその希望は郁也を裏切るのではないか。
抱き締められた歓喜の直後で、自分を絶望の淵に叩き込むのではないか。
その恐怖。
佑輔が郁也を拒まなかったのは結果だ。神ならぬこの身には、事前にそれを知ることは出来なかった。
だが、郁也はその違いを言わなかった。
それを言ったところで、佳織には分かるまい。
それに。
もう、済んだことだ。佑輔は、男のコの郁也でも愛している。この身体を選択したのは、佑輔の思いあってのこと。
佑輔は郁也を拒まなかった。
それだけでいい。
郁也は心からそう思っていた。
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