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2、ボクを、受け取って-3
もし、あのとき佑輔と出会わなかったら。
郁也は時折怖ろしくなる。
十六の夏。遠くから気付かれないよう眺めるのが精一杯で、ただ俯いてその声が耳に届くのをひたすら待ち望んでいた郁也。
あのまま、郁也が佑輔のお姫さまになることもなく、佑輔が郁也のいばら姫を揺り起こすこともなかったら。
自分ひとりだったら、今自分はどんな生活を送っていたことだろうか。
きっと、生きてはいないだろう。そう思うのは簡単だ。
だが実際には人間は言うほど簡単に死ねないものだ。もし、もし自分がひとりだったら。
冷静に考えて、あのまま自分を隠し、孤独な毎日を続けていたろう。郁也が何を思って、何が好きで、何を嬉しいと感じるか。そんなことの全てを真志穂以外の人間全てからひたすら隠し、地元の公立校の連中と決別した十二のときに、習得した男のコ言葉に本心を包み込んで。
世界は、自分と潜在的な敵の二項対立のまま、冷たい距離を保って周り続ける。そうした世界は郁也に過度の緊張を強いる。張り詰めた神経はそう何年もは保たないと思う。
郁也は大きな幸運を手にしたのだ。
では、もし、佑輔が郁也の側にいなくなったら。
郁也の指が大きく震えた。
傍らで、郁也の揚げた肉料理を上機嫌で盛り付けている佑輔を、郁也はそっと横目で窺った。見慣れた横顔。肩。短い髪が少し伸びて耳に掛かる。形のよい佑輔の耳。郁也が何か話すたび、佑輔は背を少し屈めて自分の耳を郁也の口許に寄せる。それは佑輔の癖になった。
このひとがいなくなったら。
「あちっ」
郁也は慌てて鍋から離れた。摘み上げようとした芋が箸からすべり落ち、油の滴が腕に跳ねた。
「すぐ冷やせ。ほら、こっち来て」
佑輔は郁也の細い腰を掴まえて、流し台に向かわせた。揚げ物は郁也から取り上げた箸で自分が油から上げて行く。
「珍しいな、そんなドジ」
佑輔が郁也の顔を覗き込んでそう笑った。郁也の心臓はきゅっと止まりそうになる。
(ずっと。ずっと、ボクの側にいて)
純白の花嫁衣装。それは契約の色だ。相手を一生自分の許に縛り付ける、それは権利だ。
秘密を持つことも、ほかの誰かに目を向けることも禁じる、絶対的な権力を約束する、婚礼の白。結婚とは、その権力を互いに行使し合う契約だ。私的な恋愛関係を、公的な権利関係として社会に認めさせる手続きだ。
(ボクは、このひとを、一生ボクの側に縛り付けて置きたいんだ)
違う。
郁也の心の奥底に見付けた小さな、しかし強い欲望は。
そんな乾いたものではなかった。
郁也は気付いていた。
それはベタベタに粘っこい、蜜のような甘い感情だった。
白い包装紙で自分を包んで、白いリボンを幾重にも掛けて、相手の前に自分を差し出す。
佑輔の心に応えられるものを何ひとつ持たない自分が、ただひとつ出来ること。
ボクを、受け取って。
ボクはあなたのものだ。
郁也は、佑輔に自分を受け取って貰いたかった。
そう言う資格が自分にはない。社会はそれを認めない。自分のプライドもそれを邪魔する。郁也の中の男のコが、そんな欲望を持つ郁也を責めた。
(馬鹿じゃないの。「結婚」なんて、限定的な意味しか持たないただの制度だ。もしくは自分で自分の人生を切り拓く替わりに、違う誰かの努力の成果だけ、ただ乗りしようって了見だ。そんなものに縋ろうなんて、意味ないよ。自分の人生を誰かに丸投げなんて、そんなずるいこと許されないよ)
ひとの気持ちなんて、制度で縛るようなものと違うだろ。
それはそうなんだけど。
(わたしが願っているものは、そんなものとは違う)
郁也は蛇口を閉めた。腕がすっかり冷たくなった。
「ビニール袋に氷入れて巻いとけ」
「いいよぉ、そこまでしなくても」
「火傷ってのは、後から痛むんだぞ。どれ、俺やってやる」
佑輔は慣れた手付きで郁也の腕に氷の袋を巻き付けた。最後にタオルで押さえて止める。厨房のバイトで覚えたものだ。
「ありがと」
郁也がそう言って睫毛を伏せると、佑輔はそこへ唇で触れた。十センチ郁也より背の高い佑輔の、唇は郁也の目の高さにある。
ヴァージンロードの先に待つ王子が、花嫁のベールを持ち上げ誓いの口づけをする。そんなイメージが郁也の頭の中を回る。
(どうかしてる!)
郁也はくるっと佑輔に背を向けた。
佑輔はそんな郁也を照れていると取ったのか、くすりと笑ってぽんぽんと郁也の頭を優しく叩いた。
ドアのチャイムが鳴った。
「おう、来たな」
「こんばんはー」
松山と矢口がやって来た。ふたりとも何やら手に提げて、どやどやと部屋に上がった。郁也は慌てて目許を拭い、松山の提げて来た飲みものを受け取った。
「いらっしゃい」
「久し振りだな。元気だったか」
矢口がにっこり笑い掛ける。松山とは毎日顔を合わせるが、大学が違う矢口の方とは郁也はしばらく振りだった。
「お蔭さまで。何か随分、大人っぽくなったんじゃない、矢口君」
郁也がそう言うと、矢口は眉をひそめて郁也を見上げた。
「それって『老けた』ってこと? 最近オヤジとばかり付き合ってるからな。俺も染まって来たのかな」
松山が素っ頓狂な声を上げる。
「えーっ、マジ? お前、寄り付く女に飽き足らず、遂にそっちに宗旨替えか?」
「バーカ。そうじゃないだろ。この話の流れで、どうしてそっちに行くんだよ」
相変わらず馬鹿を言っている。郁也は笑った。矢口はこの春から学生社長として、商工会議所の青年部の役員を仰せつかった話をした。
「社長っつっても、親父のとこの子会社なんだけどさ。肩書き上は一応な。忙しくて大学どころじゃないよ全く」
建設業を営む矢口の父は政界への進出を機に、それまで片手間にやっていた貸しビル業を正式に息子の矢口に譲り渡した。その中にはテナントの抜けたあとの店舗の営業も含まれており、今では幾つかの繁盛店を抱えるまでになっていた。
「ほらあの、君たちにもここへ来た頃お世話になった店。あそこも業態転換して、ようやく黒字の出る店になったよ。今度機会があったら見に来てくれよな」
そこで矢口は一息吐いて、郁也の腕に目を止めた。
「あれ、谷口。どうしたの、それ」
郁也が答えるより先に、テーブルに皿を運んでいた佑輔が言った。
「はは。こいつドジでさ。さっき揚げ物油に落として、火傷してんの。お前らのためだぞ。感謝して食え」
な、と佑輔は郁也を覗き込んだ。郁也の頬が熱くなった。
「そっか、そりゃ悪いことしたな。有り難う谷口、心して頂くよ」
矢口が優しい笑顔を向けた。この笑顔に、何人の女のコがころっとほだされたことだろう。
「そうだ。蟹持って来たんだ。谷口、ちょっと台所借りるよ」
矢口の持って来た包みには、大きな茹で蟹が入っていた。郁也は矢口の肩越しにそれを覗き込んで、それに見合った皿を出す。
「豪勢だな。さすが社長」と松山。
「蟹かあ、随分久し振りだなあ」と佑輔が溜息混じりにそう言った。
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