冴木学の場合

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「副編集長さんに報告するって、なんの意図があってのことなのかな?」  落ち着いた口調の中に、若槻さんを疑うなにかが含まれているような感じがあって、美羽姉の心の内を表しているように聞こえた。 「まずは、泊まりの仕事を一緒にしないように調整してもらうのと、プライベート以外でも、できる限り白鳥と接触しないようにするためです」 「そうなった場合、貴女の仕事に支障が出るんじゃないの?」 「かまいません。これが私なりのケジメです。本当に申し訳ありませんでした!」  腰から深く頭を下げた若槻さんは、俺たちの前から去って行った。 「彼女は自分でケジメをつけたみたいだけど、学くんはどうするの?」  若槻さんの姿が見えなくなってから、訊ねられたセリフ。さっきとはちがって、感情をまったく感じさせないフラットな口調のせいで、美羽姉がなにを考えているのかわからず、胸の中に不安が渦巻いていく。 「俺は別れたくない。どうすれば挽回できる?」 「挽回します、頑張ります。そう口では言ってても、実際の学くんは、なにもしていないじゃない」 「これ以上、美羽姉に嫌われたくなかった。そう思ったらヘマしそうで、なんかうまく行動できなくて」 「そんないいわけを聞きたくない。付き合う前の学くんのほうが、今よりずっとマシだったよ!」  過去の自分との対比――今の俺は美羽姉に嫌われないようにしようと、いい人であり続けることに、必死になっていたかもしれない。前はそんなの、どうでもよかった。とにかく自分を見てほしくて、なりふり構わずに行動してた。 (美羽姉に好きになってもらおうと、あの頃はひたすら頑張っていたじゃないか――) 「俺、いつからこんなに駄目になっていたんだろ……」 「今までのことを含めて、学くんじゃなかったら、とっくに別れてるからね」 「美羽姉……」  愛する恋人は、肩を落としてしょんぼりする俺に近づき、小さな両手で俺の頬を挟み込んでぎゅっと力を込めて、思いきり顔を潰す。 「びっ、びうねえ゛、あにおひえ?」  突然顔を潰されたことを訊ねる俺に、美羽姉はやれやれといわんばかりの露骨な表情を滲ませた。 「本当は往復ビンタしたあと股間を蹴り上げて、さっさとお別れしたいくらいの気分を、コレで済ませているんだから感謝してほしいわ」  その絵面を脳裏に思い描いただけなのに、痛みでどうにかなりそうだった。顔が潰されることくらい、どうってことない。 「ご、ごみぇん。ふぎゃいないぉれで」 「ホント、情けないくらいに不甲斐ない。そんな息子をよろしく頼むって(もとむ)おじさんに頭をさげられているし」  言いながら今度は俺の両頬を親指と人差し指で摘まんで、思いっきり抓りあげた。 「おひさんって、俺のおひゃじ?」  お袋のキャラが濃すぎて、自宅でも存在感が皆無の親父。普段は家にいてもなにも喋らず、ただそこにいるだけなのに、俺がなにかやらかしてお袋にねっこり叱られると、あとからコッソリお菓子を寄こしたり、気分転換するために外に連れ出し、俺の話をきちんと聞いた上で、ときにはアドバイスまでしてくれた。  ダメすぎる俺をいつも励ます親父は、とても大きな存在だった。  俺が美羽姉と付き合うことになったときも、お袋以上に喜んだ。『想いが実ってよかったな』と言って、目の前で涙ぐんだのが、昨日のことのように思える。 「つい最近のことなんだけど、用事があって実家に顔を出したときに、ちょうど遊びに来てた(もとむ)おじさんと逢ったの。私のお父さんと、それぞれの会社の話で盛り上がっていたっけ」 「そうなんら……」 「(もとむ)おじさんがね、わざわざ立ち上がって言ったの。『美羽ちゃん、ワガママばかり言う不甲斐ない息子を、どうか頼みます』って言ったあとに、頭をさげられちゃって」  抓っていた美羽姉の指先の力がなくなり解放されると、今度は痛んだ頬を撫で擦られる。 「親父がそんなことを――」 「会社を運営するよりも、子どもを一人前に育てるほうが難しいって、ウチのお父さんと笑いながら言い合っていたよ」 (美羽姉と逢ったことも、頭をさげてお願いしたことも、親父からなにも聞いていない。もしかしたら今まで俺のやらかしていたことを、親父なりに影で動いていたのかもしれないな)
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