純愛クライシス 一ノ瀬成臣の場合

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☆☆☆  初任給を手に、幸恵さんの家に顔を出す。一年きりとはいえ、住まわせてもらってる手前、早々に家賃を支払ったほうがいいと思った。  ピンポンを押し、いつものように挨拶すると、笑顔の幸恵さんが手招きする。 「一ノ瀬くん、いらっしゃい。さ、入って!」 「あ、今日は家賃を払いに来ただけですので」 「いいから、入る入る!」  幸恵さんは拒否る俺をものともせずに腕を引っ張り、無理やりリビングに招き入れた。 「これは――」  ダイニングテーブルの上には、所狭しと料理が置かれていて、上にラップがかけられていた。それくらいに、料理の品数が多かった。 「毎月15日は、一ノ瀬くんが家賃を支払いに来る日だったから、料理を用意して待っていたの」 「どうして」 「だって一ノ瀬くんが仕事を辞めずに、一ヶ月間頑張ったんだもの。労いを込めたのと遅くなっちゃたけど、就職祝いを兼ねてみました」  俺の背中を押して椅子に座らせた幸恵さんの声はとても弾んでいて、断ることなんてできなかった。 「ありがとうございます。こんなにたくさんの料理を作るのは、結構大変でしたよね?」  向かい側に腰かけた彼女に、恐縮しながら話しかける。 「うふふ、大変だったけど、一ノ瀬くんが食べてくれることを考えたら、自然と品数が増えちゃったの。遠慮せずに、どんどん食べてね」  手際よくラップを外し、食べるように促されたので、このときは必死こいてがっついた。当然余るので、それは持ち帰ることになる。 「幸恵さん、旦那さんの分はいいんですか?」  食後のコーヒーをいただきながら問いかけた俺に、幸恵さんは寂しそうにほほ笑んだ。 「ウチの人が帰ってくるのは二週間後。地方で仕事をしてるから、しょうがないのよね」 「建築関係でしたっけ?」  過去にかわした会話を思い出して告げてみる。大学時代も何度かこの家に顔を出してはいるが、旦那さんを見かけたのは数えるくらいだった。 「そうよ。一ノ瀬くんはカメラマンとして働いてるけど、普段はどんなものを撮ってるの?」  興味津々の幸恵さんに、普段から持ち歩いてるアルバムを、カバンから取り出した。自身の腕を他所にアピールするために、小さなアルバムを常に持ち歩いている。こうして営業するためのアイテムがこのアルバムなのだが、仕事抜きで誰かに見せるのがはじめてで、少しだけ緊張した。 「いろんなものを撮ってますよ、こんな感じです」  言いながら幸恵さんの手にアルバムを渡した。彼女はそれを見開きつつ、顔をぱっと明るくさせる。 「どれもすごく綺麗! 色彩が鮮やかなものもあれば、モノクロでも目を惹くものあって、どの写真を見ても癒される」  目の肥えた業界人が見たら、正直なところなんてことのない写真ばかりなので、当然褒められることもないし、大抵「いいんじゃない」のひとことで片付けられてしまう。それをこうして率直に褒められたことは、思った以上に俺の心に衝撃を与えた。 「ぁ、ああ、そう……ですか。それはよかったです」 「この写真、不思議ね。なんてことのない風景なのに、こうして写真として眺めると、どうしてかしら。いいものに見えてしまうの」 「お気に召したのなら差しあげます。アルバムから剥がしてもいいですよ」  動揺を示すように上擦った声で告げてしまったことにひどく焦り、体を小さくしながら俯いた。だから幸恵さんがどんな顔をしているのかわからない。 「本当にいいの?」 「はい、またプリントすればいいだけなので」  耳に聞こえる写真が剥がされる音と、幸恵さんの笑う声が不思議と耳に残る。 「一ノ瀬くん、また新しい写真を撮ったら見せて?」 「あ、は、はい。代わり映えしないものになるかと思いますけど」 「約束よ、はい、指切りげんまん!」  俯いた顔の前に差し出された幸恵さんの小さくて細い小指に、自分の小指を絡めた。 「一ノ瀬くんのおかげで、楽しみが増えちゃった」 「それはよかったです……」 「実は離婚の話をしていてね。ここのところ暗い話題ばかりだったから、一ノ瀬くんの写真で、ものすごく癒されちゃった」  幸恵さんのプライベートな話に、俯かせていた顔をやっとあげた。剥がした写真に視線を落とした彼女の顔は、どこか悲しげなものに見えたのに、背後にある窓から差す日の光がライトのように当たるせいか、綺麗なものとして俺に認識させる。 「だったら幸恵さんが元気になるように、たくさん写真を撮ってきます」  かわいそうな彼女を励ますために、俺は宣言どおり写真をたくさん撮った。最初はただの同情から優しくしただけだったのに、それが変わったのは俺の住むアパートに、頬を涙に濡らした幸恵さんが現れたからだった。
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