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汀にぽつんと浮いたのがなんだったのか、爪先を撫でていく波の柔らかな感触が忘れておしまいよと囁くのをじっと堪えながら思い出そうとした。昼間の熱を残すぬるい風が肘と胴体の隙間を通り、なんにも怖くはないよと心臓まで支配しようとする。怖くはない、ただ一つ忘れたものがあることが気がかりなだけなのだ。
とぷんとぷんと波が高くなっている。足の指の間を丁寧にくぐり、確実に捕らえて離すまいと何度も輪郭を撫でられる。足首まで迫った波が打ち寄せる度に枷を嵌めているようだけれど、それでもこのまま身体が全部水に覆われてもいいと思った。外側も内側も全部好きにしたらいい。
あんなものがどうして気になるの。
あんなものって言うだなんて。
……あなたを侮辱したいわけじゃない。
わかってる。ただ気になるの。
取って来てほしい?
え?
それで金色の鋭い光が暗い水の中から一筋射して、ちゃぷん、となんの飾り気もない指輪が運ばれてきた。摘まんで拾うと輝きは失せて、目を凝らして見てみれば、かつてはそこに文字が刻まれていたのが知れた。何かで擦って判読できないようになっている。消したかったのか消すべきだったのか、過去から解かれるためにここに捨てたのかもしれない。水の中に眠って指輪だけ流されて来ただけかもしれないけれど。
気が済んだ?
うん。
指輪を砂の上に放り投げた。なるべく波の届かない遠くに。
一際大きく波が打ち寄せ、一息に身体が包まれた。直前に風が口から入り込んで喉を通る。またいつかと餞に、陽射しで満ちていた日々の香りが胸に満ちた。
恋人が指を絡ませるように水は優しく身体をくるむ。あらゆる輪郭を全部自分のものにするように。髪の一本一本、爪の間、手や脚の付け根、とにかく全部だ。全部が自分だけのものでなくなるような心地。他人に全て委ねてしまう心地良さ。人間ではなくなってしまうのがどうでも良くなる。
これからあなたの肉は全部腐る。
そうだね。
あなたの魂が欲しい。
あげる。いいよ。言ったでしょう。
水は愛していると言って、それに応える言葉はなかった。
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