153人が本棚に入れています
本棚に追加
その夜。仕事から帰ってきた私は、冷蔵庫の缶ビールに手を伸ばしかけてふと思いとどまった。
無表情で冷蔵庫のドアを閉めて、ベランダに出る。
見上げた空は晴れていたけれど、街の明るさに邪魔されて、相変わらず星は見えない。
じっと耳を澄ませてみたけれど、衝立の向こうから昨夜の声が聞こえてくることはなかった。
「こんばんは、アキ」
ガッカリして静かに部屋に戻ろうとしたとき、衝立の向こうから柔らかな低い声が届いた。
「こんばんは」
私に挨拶されたわけでもないのに、聞こえてきた声に思わず小声で返してしまう。
「アキ、今日はなんだか元気ないね。どうかしたの?」
衝立の向こうで、彼が心配そうに彼女に呼びかける。
彼女に何かあったのだろうか。気になるけれど、会話を盗み聞くのはよくない。
私はベランダの窓のサッシに腰をおろすと、彼が話す言葉の意味ではなく、衝立越しに届く彼の声音だけに耳を傾けた。
「大丈夫だよ、アキ……」
心地よく耳に響く重低音。
目を閉じて彼の奏でる音を聞いていると、心が安らぐ。仕事の疲れや、身体に溜まった緊張がほぐれていく。
しばらくそうして目を閉じていると、いつの間にか彼の声は途切れていた。
心も身体も心地よく満たされて、電話が終わったことにも気付かなかったし、窓のサッシに腰掛けていることすら忘れかけていた。
苦笑いして立ち上がると、ベランダの窓を閉めてベッドに潜り込む。
その夜はひさしぶりに、何も考えることなく、朝まで一度も目覚めずにぐっすりと眠った。
最初のコメントを投稿しよう!