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「調子はどうだい」
網戸に張り付く小さな虫を、指先で弾きながら呟く。電話越しの相手は「ぼちぼち」と答えたきり、黙り込んだ。どうやら繁華街を歩いているようで、街の喧騒が僕の耳に触れた。
彼が喋らないことを良いことに、僕は一度携帯から離れて蚊取線香に火を付けた。網戸をすり抜けた煙が夜に溶けて消えた。
「蚊取線香をつけたよ。お前はこの香りが好きだったね」
「もう忘れた」
「そう、僕は好きだけれどね」
僕はみぞおち辺りに渦巻く気持ちが悪いものを押さえるように、ぎゅっと膝を抱え込んだ。何故だが調子が悪いようだった。
「もう少ししたらね、お前に会いに行こうと思うんだ」
「来なくていい」
家に着いたらしい彼は、鍵を開けると乱暴に靴を脱ぎ捨てた。その音すらも懐かしんで耳を澄ませる。幼い頃は部屋の奥へ駆けていく彼を見送って、靴を揃えてやったものだった。
「家、着いたから」
「うん、じゃあネ」
「また」
僕は彼が電話を切るよりも早く切ってしまった。何故だかこみ上げるものを飲み込むのに、僕は必至だった。
ふと見た蚊取線香は途中で火が消えていた。取り残された中途半端な緑色の渦に、僕は目を回す。僕はきっとそんな存在だった。
「調子はどうだい」
僕は笑った。網戸に張り付いた小さな虫を指先で弾いて窓を閉めた。
最後の夏かもしれなかった。
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