オソ18と同じ時代に生きている興奮

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オソ18と同じ時代に生きている興奮

東京23区の1.6倍ほどの面積を持つ標茶町、とは言え、400Kg超とも予想される巨大熊オソ18にとっては、自分の庭みたいなものだろう。 写真は巨大ヒグマのフリー画像。 人物との大きさを比較して見てほしい。 遠近感を考慮しても、手脚の太さが人物の胴体より太い事が一目瞭然だ。 65879c66-6245-4174-b4e2-826151e683b8 こんな巨大ヒグマと予測されるオソ18が自分の庭とも言える地域の事情を何もかも知り尽くしているとすれば、住民の恐怖は計り知れない。 人目につかない時間と場所を考慮し、速やかに思い通りに移動する。 「まるで(狩猟法による規制で)猟銃の使用が日の出から日没に限られていることを知っているかのようです」 「普通のクマは獲物に執着するものです。一番のご馳走である内臓を食べて姿を消しても、いずれ残った肉を食べに戻ってくる。クマを駆除するハンターはその瞬間を狙うのが定石ですが、OSO18は張り込んでいても戻ってきません。牛を襲っても内臓を少し食べる程度。まったく食べないこともあり、遊び半分で殺しているとしか思えない。こんなクマは見たことがありません」 (ハンター歴60年を誇る北海道猟友会標茶支部長の後藤勲氏 談) (週刊ポスト2022年9月2日号より抜粋) 例えば・・・人間同士の場合。 相手が自分より絶対的に弱いと確信した際、すべての言動に余裕を持つことができる。 恐らく・・・オソ18は、絶対的な自信があるのだろう。 自分の強さに。 焦って、危険を冒してまで残った肉など食べる必要はない。 常に新鮮な狩りを楽しみ、味を嗜み、人間との駆け引きを余裕で面白がっているようにさえ感じられる。 この度、厚岸の乳牛がクマと激しく争ったらしいと推測されているが、オソ18が本気で乳牛と戦って、撃退される訳がない。 オソ18は、遊んでいるのだ。 野生生物だって、余裕があれば遊ぶ。 乳牛と遊んでいるかに見せかけて、実際のところ、人間と遊んでいるのかもしれない。 俺は、かつて猟銃免許を取得しようかと本気で考えた時期がある。 山が大好きだから。 しかし熟慮の末、やめた。 俺は多分、どんな命も殺せない。 釣りでさえ、キャッチ&リリースが基本だ。 リリース技術が未熟なヤツを見つけると他人でも説教してしまう(苦笑) ヒグマはキャッチ&リリースなど、あり得ない。 手負い熊の獰猛(どうもう)さは、恨みに燃える人間と同じだ。 敵討(かたきうち)仇討(あだうち)が制度として公認されていた日本の歴史を振り返れば、手負い熊の心境は誰もが理解できるだろう。 オソ18は何度か人間と接触し、それなりに危険な目に遭い、恨み・不安・恐怖等の様々な経験値を積んできたものと思われる。 その果てに、現在のような狡猾な魔物と化したのだろう。 今さらながら、俺は思う。 オソ18のような森の知性の出現を予測できたなら、あの時、猟銃免許を取得しておけばよかった、と。 ありとあらゆる手段と道具と知識と技術を駆使して、全力で彼と真剣勝負してみたかった。 野生の精鋭とで向き合い、自分の魂を懸けて人間の未開の領域を探求してみたかった。 きっと、負けると思うけど(汗)
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