死人の誘い

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 私の前に、血みどろの恋人が再び現れ、私に囁く。 「こんな世界で生きている必要なんて、もうないでしょ?」  恋人は、積極的に私を死へと(いざな)ってくるようになった。 「こっちにおいでよ、こっちはいいところだよ」  それは、以前にも増して、直接的な言葉になってきている。 「ほら、いいタイミング。そこで飛び込めばすぐ楽になれるよ」  電車を待っているときも。 「ねえ、ここから飛び降りてごらんよ」  橋を渡っているときも。 「今日も、周りから責められるよ。屋上に行こうよ」  会社にいる時も。  ――ずっと、ずっと、私の耳元で囁き続ける。  目を瞑れば、脳裏に焼き付いた血まみれの恋人の姿が映し出される。  夜は眠れない。  もう、楽になりたい。  私はそう思い始めた。  私が、睡眠不足な上に仕事でクタクタに疲れて、駅のホームで電車を待っているとき、目の前の線路に現れた恋人は、そこから私を誘う。 「こっちにおいで、勇気を出して飛び込んでごらんよ」  当然、それは私にしか見えていない。  電車が近づくにつれ、その動作は激しくなり、早く、早くと誘ってくる。  私が飛び込むことなく電車が到着すると、恋人はいつも残念そうにする。 「ああ、もったいない、もったいない」  私はもう、耐えられなかった。  いっそ、このまま楽になりたいとさえ思った。  社会からの苦しみも、恋人からの苦しみも、すべて消してしまえる。  私はそれを望んでいた。  それでも、私が自ら死を選ぶことをしなかったのは、恋人と同じ場所に行きたくないと思ったからだ。  あの恋人のいる向こう側に行くことだけは、絶対に嫌だ、とその時は思っていた。  私は、いつの間にか、あんなに大好きだった恋人のことが、心底嫌いになっていたのだ。  化け物になってしまった恋人には、もう既に嫌悪感しか抱けなくなっていた。    そのうちに、私の中で、恋人は恋人ではない何か、別の存在に変わっていった。  それは、ただ、私の負の感情を具現化した何か、に。  もう、ただの不愉快な存在としか思えなくなっていた。  そして、その恋人だった何かは、時に私を口汚く罵り、時に言葉とは到底思えないけたたましい雑音をかき鳴らす。  ついには、『死ね』としか言わなくなった。  恐ろしい異形の姿で私の前に現れ、耳障りなノイズに乗せて、『死ね』という言葉を延々と繰り返し発し続ける。  それが、意図しない場面で不意に訪れる。  プライベートでも、仕事でも、会議中、顧客との打ち合わせ中、どこでもお構いなしだった。  それは、仕事に大きく影響を及ぼし、足手まといの戦力外となってしまった私は、その職場からの退職を余儀なくされた。  そして、恋人だった何かは、それを喜ぶかのように、私の前に現れる頻度も上昇していった。  当然、恋人だった何かの造形は、私の精神状態で大きく変わる。  平常時でも十分に醜いのだが、どん底の時はもっと醜い存在になる。  腐敗して、ところどころ骨がむき出しになり、蛆の沸いている状態から、この世のものとは思えない造形に変わる。  言ってしまえば、ドロドロに溶けだしたどす黒い液体の塊が、辛うじて人の形を保っているようなものだ。
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