一 大正十三年十二月 船場・平野町 一・六夜店

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「わてはなんともあらへん。飴落としてもうたけども……おおきに、遥二兄ちゃん」  遥二郎は右肩の痛みをこらえながら、「ほんなら、ええんや」と多季の頭を撫でた。  おおごとではないらしいと見てとって、元の流れに戻ろうとする群衆の中で、ふと遥二郎は自分を見下ろす視線を感じ取った。見慣れた姿が、いつの間にかすぐ近くにいる。 「礼一兄さん」と喉まで出た声が、止まった。  礼一郎は弟妹を見下ろしながら、こころもち首を傾け、ただ黙って立っていた。  遥二郎は背中に、冬の夜風のせいではない寒気を感じた。ふだんの礼一郎ならば、慌てて自分たちに手を差し伸べるだろう。「どないした」の一声くらいはかけるだろう。それが何の表情も映さない、硝子玉のような目でこちらを見下ろしている。  今の失態に呆れられたのか、自分のいない間に礼一郎を不機嫌にさせる何かが起きたのか。ようやく立ち上がり、多季の手を取って、礼一郎に頭を下げた。 「みっともないとこお見せして、すんまへん。多季はこの通り、傷ひとつついてませんよって」 「さよか」  礼一郎はただ一言、放り投げるように言うと、くるりと踵を返した。遥二郎が唖然としたまま多季の肩を抱えていると、少しいらだった顔で振り向き、 「()のか」  と、また短く口にした。  返事すら待たず、遠ざかって群衆に紛れそうになる背中を、遥二郎は多季と共に慌てて追いかけた。三兄妹揃って出かけたのが別々に帰ってきたと知れたら、母のひさ子に何と小言を言われるか分かったものではない。  人混みを掻き分けながら数歩走ると、麒麟屋の前に陣取っている玩具の屋台がちらと目に入った。礼一郎に何が起こったのか尋ねようか、という考えが、遥二郎の頭をよぎる。   兄の態度が豹変したのは、この屋台で何かが起こったからかもしれない。  しかし礼一郎の速い歩調はそれを許さなかった。店の表口とは分けられた、狭い格子戸に今にも手をかけようとしている。 「待ってぇな、礼一兄さん」  叫んで足を速めながら、遥二郎の頭の中には混乱と謎が渦巻いていた。  ――礼一兄さんに、一体なにが起きてしもうたんや――
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