二 大正十三年十二月 船場・平野町 狭柳家

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 本や文房具の類いではない。廊下の気配に注意を払いながら、遥二郎はそっと礼一郎の部屋に足を踏み入れた。  女性の肖像が描かれた、手のひら大の硝子の板だった。遥二郎自身は買ったことがないが、硝子絵だとすぐに気付いた。硝子の反対側から泥絵具や油絵具で絵を描き、表から鑑賞するものだ。モデルの女の顔ははっきりとは分からないが、髪型から若い芸子だということは推し量れた。  遥二郎はしかしそれよりも、  ――なんやこの芸子、少し妙な――    もっと近くで観察しようと一歩近づいたとき、後ろの襖がさっと開いた。 「何をしてるんや」  礼一郎が廊下に立ったまま、低い声を出した。ただでさえ白い肌が血を失って青ざめ、「女のよう」とも評される奥二重の目が冷たく細められている。 「か、堪忍しておくれやす、ちょっと借り物を――」  震えながら遥二郎が言い訳をし終わる前に、礼一郎は遥二郎の襟元をぐいと掴んで弟の部屋に続く襖を開け、畳に叩きつけるように放り投げた。倒れこんだ遥二郎が身を起こす前に、ぴしゃりと襖が閉められる。  上半身を起こし、座りこんだまま、遥二郎はしばらく呆然としていた。    今までこんなことはなかった。勝手に部屋に入ったことは滅多になかったものの、礼一郎は遥二郎の大概の粗相は笑って許し、たしなめるとしても差し向かいで静かに言い聞かせてきた。少なくとも、無言のままにいきなり弟を放り投げるような兄ではなかった。  昨夜の、転んだ自分と多季を見下ろす、無感動な目。  さっきの目は、そのときに輪をかけて冷え冷えとし、背筋を凍らせるものがあった。  やはり一・六夜店以来の兄は、何かがおかしい。遥二郎の中で不安と心配が細菌のように増殖し、恐怖へと変化しつつあった。
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