二 大正十三年十二月 船場・平野町 狭柳家

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 夜になり、床についてからも、遥二郎はなかなか寝つけなかった。風が硝子窓に当たり、がたがたと鳴るのさえ妙にうるさく思える。  礼一郎が夕餉(ゆうげ)に姿を現わしたときにも、伊兵衛の声かけにすら生返事をするだけで、ただうつむいて箸を動かしていた。その後も礼一郎の部屋からは、いつものように本を机に広げる音や、鉛筆をナイフで削る音がまったくしてこない。寝る時間になっても、寝巻きに着替える衣擦れも、寝息すら聞こえてこなかった。  ――この襖の向こうで、礼一兄さんは今何をしてはるんやろうか。  襖をじっと見つめながら、遥二郎の目は冴えていく一方だった。  なぜかそのとき、遥二郎の頭の中には、ひとつの想像がこびりついて離れなかった。あの机に置かれた硝子絵を、礼一郎がただ見つめている姿。硝子絵の芸子が、ほんものの女のように礼一郎の心を搦めとり、身体を支配している様。  礼一郎は、一・六夜店や他の露店で買った玩具や本をよく遥二郎たちに見せてくれたが、あの硝子絵を見た記憶がない。  一・六夜店で、礼一郎は硝子絵を手に入れたのではないだろうか。  その硝子絵のせいで、礼一郎はおかしくなってしまったのではないか。 「……あほらし」  遥二郎は口の中でつぶやいたが、突飛な想像が頭の中から消え去ることはない。寝付けないままに、明日は学校(がっこ)で居眠りしてしまうやろな、とぼんやり考えはじめたとき。  廊下から礼一郎の部屋に続く襖が、すうと音を立てた。
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