二 大正十三年十二月 船場・平野町 狭柳家

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 ぐっ、という恐怖の声を、危うく喉の奥で止める。    女が、襖のすぐ向こうから、こちらをじぃっと覗いていた。    青ざめた肌と、白っぽい着物――襦袢(じゅばん)なのか、上に何か着ているのさえ分からない――が、襖の隙間に細く切り取られている。  しかし何よりも、遥二郎の心臓を穿ったのは女の目だった。限界まで見開かれ、瞬きすらしない瞼。蝙蝠(こうもり)のそれのように、煌々と妖しく光る眼。その目が、わずか数歩しか離れていない間近で、遥二郎を絡め取っている。  その場から動くことも、目を逸らすこともできない。震えた唇を手で押さえ、声を上げまいと必死になっているうちに、襖がたん、という静かな音を立てて閉まった。  視線の呪縛が解け、やっと大きく息を吐き出した瞬間、襖の向こうからうめき声が聞こえてきた。  礼一郎の声だ、と思うとためらってはいられなかった。恐れを振り払い、襖を開ける。  女の姿はどこかへ消えていた。ただ礼一郎が四つん這いになって、何かを吐き出そうとしている。 「礼一兄さん」  一声叫び、五燭電球のスイッチをひねる。明るくなった部屋には、女の残滓は少しも残っていなかった。しかし、礼一郎のうめき声は止まらない。  名前を呼びながら、しきりに痙攣する背中を撫でる。しゃっくりに似た音を喉から出したと思うと、礼一郎の口から何かが吐き出された。  夕餉に食べたもの、ではなかった。遥二郎の目には、水――に見えた。やや濁った水に、茶色い腐ったものの欠片や、砂のようなものが混じっている。
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